見難きは我が心
お経や真言の意味は?唱える声によって先祖や自分が成仏するのではなく、唱える人の心が御神仏に呼びかけ訴えて、先祖は極楽浄土に導かれ、自分達は幸せに導かれる。弘法大師様曰く『形だけの信仰は罪を作っているのと同等である。真言は法の母であり利剣である』心から真言を唱えることによって、自分の持って生れた悪い因縁を鎖から切り離し、自由にしてもらえるのです。人間社会において言葉が人の心に響き、その人の人生まで変えることがあります。人間の感情をより多くの人々に伝えるのは言葉です。言葉は他人に良い影響も悪い影響も与えます。従って御神仏や先祖に伝えるお経や真言は、真剣に真心を込めて唱えなければなりません。慣れあいにならないことが大切です。せっかく自分の大切な時間を割いて唱えているのですから、相手に訴えなければ何の意味もありません。御神仏に伝わるのは信仰心に嘘や偽りのない言葉であり、御神仏や先祖の前に居て恥ずかしくない心を持っているか?信仰への裏切りや疑いの心がないか否かを常に自分の心に問いかけてみる。
弘法大師様の言葉で『近くして見難(がた)きは我が心なり。本心は主で妄念(もうねん)は客なり』人間全て仏の心を持っています。主人である本来の心は悟りを求める清らかな心であり、仏と同じ心です。迷いの心はあくまでも客人なのです。ところが何時までも客人が帰らないのは、主人の心が客人と同じ心になって来るほど、客も居心地が良くなり、その心に居座る様になります。類は類を呼び込みます。
神棚の社の前に御心境(御神鏡)がありますが、絶えずあの鏡に自分の心が映し出されているのです。悪い心、疑いの心で御神仏の前に立つと、自分自身の心がそのまま自分に返って来る仕組みになっています。人生相談をしていると、特にそれが良くわかります。疑いの心で来ると御神仏からも真の答が返って来ません。少しでも早く自分の非を認め、心から懺悔し、明るく疑いのない信仰をして下さい。しかし信仰を勘違いしてはいけません。先祖を供養する事が信仰だと思っている人が多い。これは御神仏から見られると、人間として当たり前の行為であって、信仰ではありません。真の信仰は、御神仏に心から帰依し、自分自身の心の浄化にはげむことです。
合掌