真の支え

死について考えることは大きく分けて三通りあります。一つ目は自分の死を考える。年を重ね死が近づく時、若くても治る見込みのない病を抱えた人が、自分の死について考える。二つ目は他人の死について考える。ニュ―スなど報道により、全く無関係な他人の死について考える。三つ目は最愛の人の死です。家族や親友で、失いたくない最愛の人の死。だいたい大きく分けると、この三通りに分けられると思います。全く信仰していない人が、自分の死を考えれば考えるほど不安が募るだけです。他人の死は悲しく寂しいですが、日々自然に薄らいでいきます。一番良く考えるのは、自分が大切に思っている人、最愛の人の死です。その時初めてあの世がないと思っていた人も、あの世があって欲しいと願い、自分の大切な子供や、親兄弟、親友は、あの世でも生き続けて欲しいと思います。もしあの世が無いのなら、先祖供養の必要もなく、葬式も出さなくて良いのです。あの世など無いと言っている人が、お葬式を行ったり、お墓を建てたり、仏壇で拝んだりします。それは何故でしょうか?やはり人は心のどこかであの世があるかもしれないと思っています。しかし目に見えない世界を信じていると変に思われるのではないかとか、格好悪いんじゃないか、と考えています。この世だけしかないと本心で思うなら、この世で悪いことをしても、一生懸命に働かなくても食べるだけあれば、好き勝手なことをして、人に何を言われようと問題ないと思います。昔の人は子供を育てる時に、「ご先祖様が見ているよ、神様が見ているよ、仏様が見ているよ」と言って子供を育てましたが、今の人は学校の成績が一番、学校の成績さえ良ければ、良い子という考え方が多くなっています。学校の成績が悪ければ、その子は悪い子と決めてしまい、それが若者の犯罪をどんどん増加させているのではないかと思います。従って目に見えないものの大切さを知るべきです。例えば家は基礎工事の上に建てます。基礎は見えません。植物でも大切なのは見えない根の部分です。根や球根が腐ると、良い実も花も咲きません。人間も同じです。目に見えない精神部分をしっかりと育てることによって、人は正しく育ちます。真の支えは目に見えない所にあります。

合掌