悪人正機

 書物の中に意味を取り間違え易い本があります。疑問に思われて質問されることが、多々ありますのでそれについてお話致します。親鸞聖人の『歎異抄(たんにしょう)』の本に説かれている「悪人正機(あくにんしょうき)」についてです。その中に『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』という文があります。直訳すると、善人は極楽往生する。ましてや悪人は往生して当たり前だ、と言う意味になります。この直訳を深く考えずに読むと問題がおこります。まず、善人は極楽往生しますよ、は当然に感じます。次に善人が極楽に行けるのならば、悪人なら当然極楽に行けますよ、という理解になってしまうからです。実際、それを見た当時の人は、多くの人達が暴動を起こしました。一生懸命真面目に働いている善人達が、悪人も善人も一緒なの?「南無阿弥陀仏」さえ唱えれば、悪人も善人もみんな平等に助かるの?それならば今日から真面目に働くのは止めて、好き勝手に過ごそうと言う考えになる人達が増えたからです。それにより考えられない位の殺人や、様々な悪事が起こりました。その結果、当時の偉い方が、「南無阿弥陀仏」を廃止する時期もあったそうです。

 悪人正機の本当の意味は、どんな悪人でも自分が悪人だと自覚し懺悔する時が必ず一生のうち何度かあります。悪人は悪事を働いても良いとか、正しいとか心の中では思っていないことが多い。悪い事だと解っていながら、ついつい悪事を働いてしまっているのが悪人です。それに比べ善人は、自分は悪い事は何一つしていないし、他人にも迷惑をかけていないので、自分は極楽往生出来て当たり前だと思っています。この当たり前が反省もしないし、信仰もしない。それではいけない。善人が極楽往生出来るのならば、一生懸命反省している悪人は、仏教者として救わなければならないという親鸞聖人の願いが悪人正機には込められています。

 そして悪人とは誰のことを指しているのか、殺人犯や強盗犯だけを指しているのではなく、人間全てを指しています。我々は大なり小なり悪人です。親鸞聖人も、法然上人も「私も悪人です」とおっしゃっています。悪人は自分で悪人だと認めています。親鸞聖人は僧侶ですが、戒律を破っていました。様々なことを止めなければいけない、止めなければいけないと思いながら、どうしても止められない。そういう自分は悪人だと考えていました。法然上人もいろんな事を説いておられても、やはり内では自分の心と闘っている所があるから、人間の中に真の善人はなく、人間すべてが悪人の中に入っているとしています。

 日ごろから「南無尊帝そわか」や「南無阿弥陀仏」等の様々な御神仏の御真言を唱えることによって、いつも御神仏に見られている。今の私では恥ずかしい。自分の悪い所は自分自身が一番知っているので、直そうと努力をする心がけが大切です。しかし親鸞聖人もすべての悪人を、救おうとはおっしゃっていません。全く反省しない悪人は救い難い、と言うことです。良い人間になって下さいよ、という願いが法然上人や親鸞聖人のお言葉の中には込められているのです。自分は悪人だと自覚し、正しく信仰し日々反省しながら生活することが往生出来る唯一の方法です。                     合掌