信仰心について

信仰をしない多くの方々が信仰をしない理由として「神仏に失礼があってはならないので信仰しない」とおっしゃいますが、それは間違いです。人間として神仏を崇拝しないことこそが最も失礼な態度です。信仰が理解できないからと何もしないのではなく、まずは形から始めてみることが大切です。弘法大師様のお話によれば『仏道、信仰とは、理念から入ってもいいし、優しい形から入ってもいい。理念がわかってから入ろうというのは間違いだ。まず形から入りなさい』と説かれています。信仰は理解できないから何もしない、と言うのではなく、まず合掌の形から入って行く。一日一回、拝むのを忘れたとしても、慣れるまでは例え一週間に一回の礼拝でもかまいません。

お大師様は『例えば、ある人が立派な着物を持っているとする。誰に見せてもこれは良い着物だと言われる。ところがそれをもったいない、もったいないと言って、タンスに入れていたのでは、寒さもしのぐことが出来ないし、人を楽しませることも出来ない。もちろん自分も楽しむことが出来ない。同様にとても良い薬を持っていても、それを服用しなければ、病気も治らないのと同じなのです。仏道、信仰もそれと同じことです』と説かれています。夜寝る時に、寝る時間だし、眠くなくても布団に入ったらどのようにしますか?パッチリ目を開けている人はまずいないと思います。まず目をつぶり、寝たふりをしている間に自然と寝てしまうことでしょう。拝むことも何かよくわからないけれど、「南無阿弥陀仏」や「南無尊帝そわか」を唱えるところから始めてみましょう。

本当にご神仏は居られるの?あの世があるの?何かわからないけれど、とにかく毎日拝んでみよう、と手を合わしているうちに、その行為が習慣となり、礼拝しない時に気持ち悪くなってきます。家を出かける前にウッカリ忘れて出てしまい、思わず車の中で拝みました、という方もあります。何年も前の自分を振り返った時に、こんな良い習慣ができるとは思っていませんでしたが、毎日、拝む形をしていたら勝手にそうなりましたと、おっしゃいます。

信仰心はまずは身体で覚える、つまり体得することが大切です。その結果ご神仏からの大慈悲のお光を頂く自分を感じる様になり、物事に心から感謝出来る自分になります。信仰は続けることが肝心です。

合掌