体得した説法を活かしていますか?

自分が悩んだ時や、他人に悩みを打ち明けられた時、説法を活かすことが出来ていますか?

不満を言っている人が居たら、必ず仏の教えを話しましょう。正しい事を話す勇気を持ちましょう。自分が正しい信仰の道を教えたくても、相手に関心がなければ、自分の知っている事を話さなかった場合、罪になるのでしょうか?そんな時は、何度か折に触れてあの世の存在と、ご神仏の存在を話し、色々な事で証明されていますよと簡潔に話した方が良いです。

信仰心の全くない人に話しをするのは勇気が必要です。お釈迦様は「三度説法をして、知らん顔をしている人は縁がない者と思い、素直に話を聞く人にその時間を使いなさい。」とおっしゃいます。

小乗(しょうじょう)仏教と大乗(だいじょう)仏教の違いはご存知ですか?簡単に言うと小乗仏教は自分だけが悟りを開き、解脱(げだつ)を目指す。大乗仏教は皆と共に助け合いながら、解脱の道に向かって行く。聖法院は、皆で幸せを目指しますので、大乗仏教に入ります。皆で一緒に、極楽行きの船にせっかく乗っているのですから、人が途中で降りたりしない様にお互い導き合いましょう。

信仰のきっかけは悩みのある人が集まって来ますから、様々な人との出会いがあり、嫌な事も良い事も色々な話を聞き、それに惑わされ易くなっています。信仰する事により、まず自分の悪い心や醜い心が表に出てきます。それは何故かというと、一般社会と違い皆平等だからです。会社は、上司の命令は嫌でも聞かなければなりません。従って本来の自分を抑えています。しかし、信仰の場では平等の立場になるので、本来の自分が出て来ます。自分が罪を犯さず、自分の魂が向上するために、他人に自分が聞いた説法をするのです。これは決して他人の為だけではありません。他人に話をすると自分自身が自分の声を聞いています。それによりより深く体得出来ることに加え、自分が話の内容と違う行動を出来にくくなります。それも出来るだけ多くの人達に話す事が大事です。自分が言っている事と相反する行動をすると信用を失います。自分自身が法話と違う行動をしない為に、また防止する役目もします。例え相手が熱心に話を聞いてなくても、話す事が自分の為なのです。これは勇気がいる事ですが、話す事はこの世に極楽の花を咲かせる種を蒔く事になります。お大師様が自分一人で種を蒔くのは限界があるので、色々な人を自分の身代わりに立てて、あちらこちらで説法させたそうです。お釈迦様も相手の信仰のレベルに合わせた対機(たいき)説法をされました。皆様も一人でも多くの方々に種まきの為、お話を実行して下さい。     合掌