他力本願

 相談の後で「信仰も一生懸命して下さいね」というお話をすると、「えー信仰しなくても良いと本に書いてありました」それに対し「どの本にそのような事を書いていたのですか?」と聞くと、「親鸞上人や法然上人がお説きになっている他力本願についての本です」と答えます。南無阿弥陀仏さえ唱えていれば、誰か他人が助けてくれる」と間違った解釈をしているのです。他力というのは阿弥陀如来様のお力のことであり、阿弥陀如来様が我々衆生を助ける為に、願いを立てられた四十八の御誓願のことです。「南無阿弥陀仏」さえ唱えていれば、誰でも助かると本に書いているので、信仰は関係ないように思われますが、それは大間違いです。書物の中にはうわすべりのことしか書かれていないことも多く、思い違いされる方々がたくさんいますが・・・。

 実は私もこの道に入った時にそれを読み、「南無阿弥陀仏」さえ唱えていれば良いのか、色々な事を疑いながら信仰していました。自分でも鵜呑みに出来なかったので、御神仏に「本当にそんな簡単なもので良いのですか?」とお尋ねすると『それは間違いである。「南無阿弥陀仏」を唱える事によって心が無になり、たとえ肉眼で見えなくても、阿弥陀如来が助ける場合もある』とおっしゃいました。聖法院の場合は、「南無尊帝そわか」とお唱えすると二十四神仏に通じ、今この者は何を求めて「南無尊帝そわか」を唱えているのか?例えば病気ならば薬師如来様というように、その者に合った御神仏がお見えになります。しかしその者の信仰心は確かなものか?助けるだけの値打ちがあるか否かを絶えず見ておられます。従って困った時の神頼みではなく、日常の言動が大切です。常日頃いい加減な言動をしていては、御真言を百万遍お唱えしても、皆さんの願っている御利益は得られませんし、助けても頂けません。残念なことは多くの方が一、二度礼拝して「御真言を唱えても、何の御利益もない。唱えても意味がない」と言いますが、それはまだ御神仏に認めて頂けていない、と言うことです。信仰はその積み重ねが大事です。同様に法然上人や親鸞上人も他力本願をお説きになっていますが、ただ南無阿弥陀仏を唱えれば良い、と言うことではなくもっと深い意味があります。表面だけの解釈をしない様に、自分自身の努力が大事です。合掌