ネパールの子供達

 飛騨高山の小学校6年生の男の子が、インドとネパールに1週間程行って来たそうです。ネパールの小学校と高山の小学校が姉妹校で、今度はネパールの子供たち4人が日本に来て、そのうちの男の子2人を信者さんの家で預かる事になりました。晩御飯を食べる時にネパールの男の子達が食卓のお皿を指差し「これは牛肉ですか?」と聞きました。ネパールの人は牛が神様の遣いだから豚しか食べないそうです。その時のおかずは牛肉だったのですが、お母さんはとっさに「豚肉です。」と言ってしまったのです。ネパールの男の子達は生まれてから牛肉を食べた事が無かったし、日本の牛肉と豚肉の区別も分からないので、「おいしい!」と言って大変喜んで食べたそうです。お母さんは「今まで清浄な体で来たのに日本で牛肉を食べさせてしまって、悪い事をしてしまった。どうやって懺悔したら良いかを神様に聞いて下さい。」と言ってきました。神様のお答えは『あなたは美味しい物を食べさせてあげようと、その子達に聞く前におかずを作ってしまったのだし、子供達も知らずに食べたのでそれは仕方がないであろう。しかし、その国によって風習が違うので先に聞いてから作る方がもっと賢明である。』とおっしゃいました。

 その子達に「何の為に勉強しているの?」と聞くと、「医者や弁護士、学校の先生になる為です。」と答えました。他人を助けたり指導したりする立場の者にならない人は、勉強する値打ちがないので学校には行けないそうです。彼等は大勢の中から選ばれて将来ネパールの為に役に立つ人になる目的ならば国から学費を出して貰えるのです。日本では親が世間体を考えて、「何処でもいいから、とにかく高校へ行ってちょうだい。」と子供に頼んで進学させる親が多く、それが日本の子供達を駄目にしているのかもしれません。


 お釈迦様が今から2600年位前に、礼拝して神様の存在を知り自分が悟りを得る小乗仏教を説かれたのですが、お釈迦様が入滅されて500年後には、自分だけが極楽浄土に行く考えではなく、皆を連れて共に行きましょうと考える大乗仏教が説かれました。聖法院も大乗仏教で落ちこぼれそうになった人を救い上げながら行きますので、なかなか進まないですが、一人でも多くの人達と一緒に行きたいと願っております。

 お釈迦様の弟子で宝間比丘(ほうげんびく)と言う方が、「私は今から修行に入りますので、一番大切な注意事をお聞かせください。」とお釈迦様に尋ねました。するとお釈迦様は、「そなたは盗む事なかれ。それだけを考えていれば後は何も気にしなくても良い。」と言われました。宝間比丘は「私は盗みなどした事は無いのだが、、、」と修行をしながら考えました。数カ月経って、ある時、ふと「私は大きな盗みをしていたのだ。」と気付きました。それは自分を盗んでいると言う事なのです。自分の体や財産は大日如来様からの借り物なのに私達は自分の物だと思っているから皆が罪人なのです。従ってそれを懺悔する為にだけでも、毎日礼拝しなければなりません。

 ある会社にインドの方が働いていて、毎日大変良く働くので給料を2倍にしました。すると次の日から1日おきにしか会社へ来なくなったのです。前の給料でなんとか生活出来たので、1ヶ月の内の半分を働き、半分は自分を向上させる為に信仰の時間に使ったのです。日本人は生活が出来ても、もっと給料を貰おうと毎日一生懸命働くし信仰よりも仕事を優先します。結果、日本は経済大国になりましたが、多財餓飢になりつつあり、「お金は持っているけれど、もっとたくさん欲しい。」と、どんどんお金を稼ごうとします。それは人間的な精神を向上する為の時間を無くしているのです。一生懸命働いてお金は残っても、死んだ後にお金は使えません。「死後に自分が持って行けない物は価値のない物である。」とお釈迦様は説かれました。ネパールの子供達は、「人の役に立つ為に勉強したい。」と言います。「皆がそういう考えなの?」と聞くと、「そうです。そうでなければ学校へ行かせてもらえません。」と言いました。日本の子供達も少し学ぶべきかもしれません。

貧しいインドやネパールの人か、お金は持っている日本の人か、どちらが幸せなのでしょう。合掌