「選ばれた私たち」

 お参りに来られた方から「信仰が大事だと言うけど、念仏や御真言を唱えたら何か良い事があるのですか?」と尋ねられることが時々あります。その時にお答えしていることは、良いことは必ずありますが今日、御真言を唱えたからといって明日から良くなる訳ではありません。何故ならば今迄数十年も放置していた御先祖様を拝み始めたからと言って、すぐにご利益を要求する考え方がおかしくはないでしょうか?御神仏に対しての礼拝についてもそうです。この世に生きているだけで知らない間に御神仏に助けられている場合が多くあります。それに対して感謝もせずに生きて来たわけですから、まず感謝から始めるのが妥当な考えです。

 信者の皆さんに御真言を唱えて下さいと言うと「南無尊帝そわか」や「南無阿弥陀仏」等どんな御真言でも心から唱える事が出来ます。しかし信仰心の薄い方に「南無阿弥陀仏」を唱えてみて下さいと言うと「そんなの個人の勝手だろう。今唱えたくない」などとおっしゃいます。「個人の勝手ですが、少しだけその気を起こして唱えてみてくれません?」と言うと、「唱えられません」とおっしゃいます。それに対しての御神仏は「唱えないのではなくて、唱えられないのだ。」とおっしゃいます。どういう意味かお解りですか?この世に皆さんが生まれてくる時、御神仏が願いをおかけになっていますが、真言を唱えられない人には願いをかけられていないからです。今世では修行をしたくない人、つまり休暇をとっている人なのです。その人達には御神仏も願いをかけていませんから、好き勝手にしても放置されます。その代わりあの世へ帰ると、もっと厳しい修行が待っています。あの世の修行は免れる事は出来ません。それだけでなく、来世生まれ変わった時に今よりも数倍レベルの落ちた生活になります。その上、精神的な苦しみも伴います。御神仏から見られた幸せと人間的に考えた幸せは全然違います。御神仏が幸せになってくれよ、と願われるのは金持ちになれよと言う意味ではありません。精神的に向上しなさい。本来の人間の魂に立ち戻りなさい、という意味です。

 精神の浄化、向上をするには、どうすれば良いのでしょうか?この世に生れて来た一番の目標である人間修行です。例えば暑いのに遠い所をお参りに来られる。これも修行の一つです。修行する事はとても大事ですが、行き帰りの道中で不平不満を言いながらだと何の効果もありません。隣り合わせた人も不平不満を黙って聞いていると同罪です。プラスになるどころかマイナスになってしまいます。信仰は表面的な形だけではなく心も浄化して行かないと修行にはなりません。御神仏は皆様の色々な願い事を全部叶えてあげたいのですが、その人固有の修行の段階もあり難しいわけです。私達は御神仏にたくさんの借りがあり、その返済もしなければいけません。私達は全員御神仏に対してローンを抱えています。従って積んだ功徳によって、すぐに願いを叶えて頂ける人、願いは叶わないが功徳ローンの返済に回される人、あの世での貯金に入金される人、その人の修行段階によって様々です。功徳を積んでも全然何にも貰ってない人は一人もいません。

 この世に生まれて来た私達は偶然生まれて来たのではなく選ばれて来た人達です。1ミリリットルの精子の中に6000万人分いるそうです。考えると数億人の人をかき分けて、自分がトップになってこの世に生まれて来た訳です。その生まれるというだけで、既に御神仏から見られると有り難い事なのです。御神仏にそれだけでも感謝して御真言を唱えるのが当たり前ではないでしょうか。その御真言を唱えられない。お念仏を唱えられないという事は御神仏に借りっ放しであの世へ帰る事になります。偶然生まれて来たのではない私達は敗者になった他の人達の為にも自分で出来得る限り、世の為、人の為に努力をしてあの世へ帰りましょう。それが私達人間としての使命です。 合掌