我執
私達は自分の人生で人間関係がうまくいくか否かによって、幸せを感じる度合が大きく変わってきます。その原因は、自分に執着(しゅうちゃく)があるからです。自分が一番大切だと思うから、思い通りにならないと他人に腹が立ちます。自分自身が可愛いから我執し、結果色々な執着に捕われてしまいます。私達は自分の事を我が身と思うから勘違いを起こします。自分の肉体は自分自身の所有物ではなく、全ての人間はこの世へ生を受ける時、如来様から法の器としての肉体を借り受けてきます。あの世に帰って、この肉体を如来様にお返しするまで大切に使い、出来るだけ綺麗な身体を保つ様に維持管理する事が借りた者の勤めです。しかしこの事実を私達人間がどれくらい理解出来るでしょうか?自分の所有物だと思うから、自分勝手な考えで傷つけたり、自殺したりします。自分自身の物は魂だけです。
この事をいかにしたら人々に理解して貰えるのか?有難い事に聖法院では特別供養でその事が証明できます。あるおじいさんを供養し、家族の方がおじいさんに何か言いたい事があれば聞いて下さい、とおっしゃいました。もちろん私はこのおじいさんにお会いした事はありません。供養をしながらおじいさんに「何か言いたい事はない?」と聞くと、「いや何も言いたい事はない。最後までよく看病してくれたし、何の不安もない。心配事は一切ないし、不満もありません。でも一つだけ頼みがあります。入れ歯だけなんとかして下さい。」と言うのです。「入れ歯ですか?それは自分で治せないの?」と聞くと「亡くなったばかりなので手がちょっと動かない」と言われたので、供養が終わり施主の方に「入れ歯がちゃんとはまってなかったよ」と言うと、御夫婦二人共びっくりされて「おじいさんが病院で亡くなった時に入れ歯を忘れて来て、お兄ちゃんが火葬場で思い出して、口に入れようとしたのですが、もうその時は身体が硬直してカチカチになっているから、ちゃんと口に入らないので仕方なくそのまま棺桶に入れて焼きました」ここが大事な部分です。もしこの肉体が自分自身のもので、ただの物体ならば、火葬場で焼いてしまったらなくなるはずです。ところが先祖は私にその状態を知って欲しい為に、何度も如来様に以前の身体をお借りして再生する事が出来るのです。もし肉体が自分の物で焼いていたら、絶対に再び出す事は不可能でしょう。これでお釈迦様のお話を立証出来る訳です。これらの事に基づいて私達の肉体は自分自身の持ち物ではないと言う事実をしっかりと自覚し、勝手な行動をしないことです。どんなに辛い人生でも生き抜く努力をする事が、私達にとって一番肝心なところです。 合掌