心を耕す
今まではガーデニングが流行っていましたが、最近はフードニングが流行しているそうです。聖法院の方々も庭やベランダに野菜を作り始めた方も多いかと思います。健康にも良いし、収穫の喜び、楽しみがあります。やはり自分の口に入れるものは農薬など使わない、自然の野菜が一番身体に良いので、お花より食べ物、やはり生きて行く糧となる物が一番です。お釈迦様も托鉢をして一日一食の食事を摂られていました。
ある日、農家の人が朝早くからたんぼや畑に種蒔きをする農繁期に、お釈迦様が托鉢に廻られました。牛乳やお粥やお菓子など、いろんな食物をまとめる役をしていた人がお釈迦様に言いました。「今の時期皆忙しいので、托鉢に来られてもなかなか渡す事は出来ないが、貴方も物を貰う為だけに回らないで、種を播いて耕して自活しなさい。」とその農民がお釈迦様に言いました。するとお釈迦様は「私はいつも種を播いています。耕しています。」「どこに播いているのですか?種も持っていないし、農地も鍬も持っていないのに、どこを耕して何時種を播いているのですか?」と農民の人が聞きました。お釈迦様は「私は、あなたの心も私の心も耕している。あなたの心の中にも私の心の中にも種を播いています。様々な人々の心を耕して種を播いています。」と言われました。
するとその人は大変驚いて、申し訳ない事をした。このお方の説法を聞きながら私達は生きているのだ、という事に気が付くのですが、今の世の中そんな事に気付く人は少ないのです。お釈迦様がいくら平等に種を播いて歩いても、その心の中をしっかりと耕し、土を柔らかくしないと芽は出ません。心に柔軟性がないと吸収出来ない。耕す鍬は説法であり、真の知恵なのです。種というのは信仰心です。耕して心が柔軟になって芽が出ても、雑草は必ず生えてきます。また雑草も生えないような心では正しい芽も出ません。雑草はもちろん煩悩で、煩悩が次々と生まれてくるのは人間として当たり前です。煩悩である雑草を自分で抜いてどんな種類の煩悩かを見極める。何故このような草が生えて来たのか?雑草も使いようによっては肥料になると言われる様にマイナスをプラスに変える事が大事です。
その方法をお釈迦様にお聞きすると、「一番目は忍耐、ただ我慢するのではなく、それを明らかにして捨てる事だ。決して諦めるという事ではない。自分がどんな煩悩を持っているかを自覚して捨てる。二番目は広い豊かな心を持つ。それは許す心を持つ事です。他人を許す心を持たなければ、煩悩は次々に生え、硬い土地、つまりはかたくなな心になる。そこに良い芽が生えなくなり、イバラが生え、その結果不幸を招く事につながるのです。 合掌