「雨安吾の季節」
この季節お釈迦様の時代、2500年前から雨安居(うあんご)の修行がありました。 時期は7月から9月を含めた最低100日間、タイで会社に勤めて10年になる青年が、人間関係が上手く行かないので、自分を見つめたいと思い3ヶ月間修行する事にしました。タイの男性のほとんどは出家の経験があり、3ヶ月修行して職場に戻り、また自分が何かに行き詰まると修行をするという繰り返しが普通の生き方だそうです。もちろん国王も出家体験がある仏教徒でないとタイの国王にはなれません。タイの方達は大変信仰深いので僧侶も大切にします。 雨安居の修行においては、自分で食べ物を作ってはいけない、女性や金銭に触れてはいけない等、色々な戒律があります。朝は必ず托鉢に行きますが、托鉢の許可がないと托鉢には行けません。勝手に行って食べ物をもらうと乞食(こじき)です。私達も醍醐寺から托鉢の許可書を頂いています。托鉢に行く事を同じ漢字で(こつじき)と読みます。持っている鉢の中に食物を入れてもらい、その鉢に入った食べ物だけを午前中に食べることを許されます。もし托鉢に行っても何ももらえなければ、その日の食事はありません。逆にたくさんもらっても翌日に残す事も出来ません。 このような戒律にはお釈迦様の教えが活かされています。食べ物を供養してくれる相手の目を見ても言葉を交わしてもいけません。お布施をもらう時も「ありがとう」と言ってはいけない。何故「ありがとう」と言ってはいけないか?例えば金品をもらう時、相手の顔を見ると、その人の顔を覚えます。人間はたくさんもらう程、顔を覚えるものです。するとこの人に借りが出来た感じがして、相手はしてやった、と言う思い上がりの心が芽生えます。それが品物でなくて行為でも同じ事が言えます。ただの乞食はくれた相手に何も与えないから「ありがとう」と感謝します。僧侶は「ありがとう」の代わりに説法や祈祷をして功徳を与える。しかし私はお布施を頂いたら「ありがとう」と必ず言います。それは人間的に有り難いからです。しかし、それをいつまでも引きずることはしません。過分に頂いた時は黙って浴油等の祈祷を致します。 ある朝タイの男性が托鉢で魚のフライで甘く煮た物を供養されたのです。珍しい御馳走なので喜んで味わって食べました。しかし夜の瞑想で、その事が大変な間違いだった事に気付いたのです。おいしいと感じる事は、おいしくないと感じる物も出て来ます。人間は生きる為に味わう事なく、噛んで飲み込むだけで十分なのでは?味わう必要は無い。この事に気付かず次の日から美味しい物が来なかったら、がっかりするでしょう。偉大なお釈迦様でさえも、見も知らない人に食べ物を頂きます。どんな人に頂いてもそれを信じて食べなければいけません。 お釈迦様は最後に信者に頂いた物で腹痛を起こし、それが元で亡くなりました。腐っているのではないか?と不安に思っても食べなければいけない戒律があるのです。現代では毒が入っているかもしれませんからやり辛いですが、そういう面では昔の方が良かったのかもしれません。見も知らない人に身を委ねる。相手の全てを信じ込む。これも神様がなさった事だと自然に身を委ねる事の大切さを説いているのです。 青年は100日間の雨安居の修行中、裸足で歩く怪我の痛みや呼吸も全て自分に執着があることなど色々な物事を悟り、職場に復帰しました。その時、青年は今までと全然違う自分を見つけたのですが、悲しいかな人間は何年もその思いは続かないようです。また貯金をして出家修行を繰り返します。会社もその度に快く送り出します。日本では元気な人が会社を3ヶ月も休むと恐らくクビになりますが、タイは日本と考え方や価値観が全然違います。日本は仕事が第一で人間の基礎向上となる信仰は大切にされていません。仕事を休んで迄は無理としても、お参りに来られた時はしっかりと法話を理解し、無駄にしない事、そして感謝を忘れない事です。感謝を忘れると思い上がりの心につながるからです。 合掌