往生とは(2020年8月)

先祖供養をした時に多い質問は、「極楽往生していますか?」です。往生と言う言葉を辞書で引くと、この世を去り極楽浄土に行って生まれること、死ぬこと、諦めて静かにすること、どうにもしようがなくなること、閉口すること、大雨で往生した、往生際が悪いなどと書かれています。しかし、ご神仏によると『往生には大きく分けて三段階あり、死ぬこと自体が往生と言うのではなく、死に至る迄に、既に往生は始まっていなければならない。何故かと言えば、人間がこの世に生を受けた時点で、第一段階の往生の始まりで、歩けて話すことが出来た時点から、第二段階の往生に入る。ここから死に到る迄を小往生とみなし、死に至った時に、大往生するのが、本来の人間の姿であり、人間に対する望みでもある。従ってあの世に行きさえすれば、誰でも大往生するのではない。何事もいきなりゼロから成功することはない。少しずつ功徳を積んで小往生から大往生へとつなぐことが大切である』と説かれています。一般的には、苦しまずに死ぬことが出来ると、それが大往生だと思い喜んでいます。お葬式をした時、大往生でしたね、と言う言葉をよく耳にします。この場合は苦しまずに亡くなった場合を指して、大往生だと言っているのですが、そうではなく生きている時から、まず小往生が出来なければ、大往生はありません。それ程大変なことであり、功徳を積む人と積まない人との差があると言うことは、これがあの世での真の平等です。もしも苦しまずに亡くなった人が大往生と言うのであれば、あの偉大なお釈迦様は、最期に腹痛で大変苦しまれたので、大往生ではなかったことになってしまいます。何故お釈迦様が最期苦しまれたのか?それはお釈迦様のこの世で最後の修行だったからです。もちろん言うまでも無くこの修行の後、あの世で大往生を遂げられて、私達を守護して頂くと共に、人々を正しく教化し、導く為に鎮座して居られます。この事実を考えても死ぬ間際の苦しみは大往生とは全く関係ありません。日々の正しい信仰の積み重ねこそが大往生へとお導き頂く方法です。日々の信仰に飽きないこと、慣れないことが肝心です。合掌