狂人と凶女

 ゴマの日にお不動様が『世の中、「きょうじん」が多過ぎて嘆かわしい事じゃ』とおっしゃいました。私は「何の罪も無い子供を殺めたりする人の事をおっしゃっているのかな?」と思ったのですが、それ以上お不動様は何もおっしゃいませんでした。ふと四国参りをしている時、様々の方々が接待を受けている姿が目に浮かびました。「狂人」と「接待」、何の関係があるのかなと思いましたが、昔はお茶を出すだけでは無く門徒さんが「この寺の御仏様は、こんなに有り難い方ですよ」と話し、接待を受けた人も自分の話を聞いて貰って、すっきりしてまた出掛けて行くと言う事が多かったようです。

 与謝蕪村(よさぶそん)の俳句に、『接待をよらで過ぎ行く凶女かな』とあります。凶女とは「お茶どうぞ」と接待しているのに、知らん顔をして通り過ぎて行く人の事です。精神的に狂った人の事では無く、信仰に縁が無い人の事を言っているのです。
 「私は信仰心が無いから、お経も唱えられないし、自分の力でこの世は成り立っているのだから、自分がしっかりしていれば良いのだ」と言う人が多いですが、この様な人は御神仏から見られれば、お経を唱える御縁を持たされていないと言う意味なのです。例えば私が悪人だとすると、善人の人と話をしても面白くありません。「説法を聞く程、魂が浄化していない」と神様はおっしゃいます。子供の頃から信仰の種を植えていないからです。お不動様がおっしゃった狂人とは凶女の事だったのです。

 その次にお釈迦様が托鉢をなさっておられる姿が浮かびました。今の日本では托鉢をする姿はほとんど見られません。私達も醍醐寺で修行をした時に托鉢行があり、誰でも出来るのでは無く、托鉢の証と言う木札を首から下げて、真冬に回るのです。日本では行としてするのであって、お釈迦様の時代や今でもインドやタイのように托鉢によって、その日の食にありつけると言う訳ではありません。
 インドのマゴダ地方にお釈迦様が托鉢に行かれた時、ある農夫が「私達は田を耕し、種を植えて雑草を取り、牛を引いたりして得ている食を、あなたたち沙門は、何故、何もせずにただ立っているだけで物を貰おうとするのですか?」お釈迦様はその農夫の話を聞かれて、『あなたの言う事は正しいですが、私も働いています。あなたと同様に田を耕し、種を蒔き、色々な事を皆さんと同じ様にしています』とおっしゃいました。
 それを聞いて農夫達は、「沙門が労働をしている所を見た事も無い。そんな嘘をつくな」と言うとお釈迦様は『大地を耕すだけが耕すと言う事では無い。一番大切なのは人の心を耕す事である。人の心を耕すのはとても難しい事で、正しい智慧を持つ事が、クワやスキの代わりになり、信仰の種を植えて、日々の精進と努力が大切です。そして畑には草がどんどん生えてきますが、それが皆さんの煩悩で、その煩悩を少しずつ刈っていかないと、良い実はなりません。その種を私達は植え付けています。だから皆さんと同じ事をしているのですよ。ただボーッと暮らして皆さんから食を得るのはただの乞食。私達は乞食ではありません』と毅然と説かれました。
 そこに居た農夫は、「なるほど、見た目で動いている人だけが働いているのではなく、目に見えない所で私達の為に働き、心を耕してくれているのだな」と農夫は感心しました。

 お不動様は護摩を焚いている間に私が何を考えているのか、私の心の中を見ておられて、『人々は信仰の種を自分の心に植える事は植えるが、自分の心の中の物が鳥となって、畑の中の種をほじくり出してしまう。また芽が出たと思ったら、その芽を摘み取ってしまう鳥もいる。そして芽がようやく大きくなって来たなと思っても、雑草(煩悩)を摘まずにいると、良い芽も枯れてしまう。雑草を摘み取ったとしても、もうすぐ甘露の実がなり、実が食べられると思っているとその実を食べずに、もっと良い実が他にあるのではないか、と飛んで行ってしまう鳥もいる。ただ形だけ信仰していても、甘露の実はなるものではない』と説かれました。
 皆さんは信仰の種は植えておられると思いますが、無信心の人の話しに惑わされて、自分の心を愚かな鳥にしない様に、しっかりと信仰しましょう。

合掌