夕を迎えて

真夏を迎えるこの時期は、各地のデパートで、お中元の商戦で大変な時期です。

もともとお中元とは何処から来た言葉でしょうか?中国には昔から三元と言う教えがあり、正月15日を上元、715日を中元、1015日を下元と称し、それまでに犯した罪を反省し、やり直しを計る日としたようです。

中でも中元は一年の真ん中に当たり、これまで無事に過せた感謝を表す日だったのです。その感謝の気持を企業が商売につなげたのがお中元の形になったようです。

 今日はちょうど七夕です。77日は7日盆と呼びます。七夕をタナバタと呼ぶのは何故でしょう?

タナバタとは幡を立てる棚の事で、幡は精霊の依代(よりしろ)だと言われています。つまり御先祖様が集まって来る場所です。ちなみに万葉集では七夕を「なぬかのよ」と読んでいます。各地で行われている七夕祭りは、仏教の教えが受け継がれているのです。今では笹に短冊でお願い事を書いていますが、日頃御先祖様にはお願い事をせず、ひたすら成仏を願うばかりですが、七夕は年に一度だけ御先祖様にお願い事をする日に変化したものです。この様に日本古来の大切な行事には、ほとんど仏教の教えが含まれています。仏教と言えばお釈迦様を思い出し、悟りの言葉が連想されます。

 その悟りで正岡子規が残した言葉があります。『余は今迄禅宗のいわゆる、悟りと言う事を誤解していた。悟りと言う事はいかなる場合にも平気で死ぬ事かと思っていたのは間違いで、悟りと言う事は如何なる場合にも、平気で生きている事であった。』嫌な事や苦しい事があると自殺者が多くなります。ある意味悩みや苦しみから逃げて自殺を選ぶのでしょうが、どんなに辛い事があっても生き抜く事がそれぞれの人間の修行です。逆にもっと生きたいのに、あの世から招かれたら、自分ではどうする事も出来ない苦しみもあります。これも悟りに到らなければ、大変な苦しみと執着になるでしょう。

 明治の傑僧と言われた臨済宗、天龍寺派の管長である橋本峨山さんが48歳で臨終を迎えた際、弟子達を集めて言った最期の言葉は意外な言葉でした『お前達よく見ておくが良いぞ、死ぬという事は辛いもんじゃ、死にとうないわい』とおっしゃったそうです。如何に修行をした高僧でも今生の別れは辛いものなのだと想像出来ます。最期を迎えた時、周りに感謝し、自分の人生にも満足し、何の未練も執着もなく、あの世に帰れたらと思いますが、偉大なお釈迦様も最期の執着はありました。

それは自分自身が説いた教えが、多くの人々に行き渡り、未来永劫までその教えを伝え残す事が出来るか、否かが不安で最後の執着になられた様です。我々凡人とは執着の内容が大きく違います。聖法院ではお釈迦様の教えを忠実に守り実践しています。お寺が存続する限りこの教えを体得して頂き、守り続ける事がお釈迦様に対しての御恩返しと感謝の表れにもなります。この意味を込めて、残りの人生の時間を大事に使いましょう。  合 掌