天海上人

 『日光を観ずして結構と言うなかれ』と言う諺がありますが、静岡の久能山から日光に東照宮を移されたのは天台宗の天海上人です。この方が寛永20年(1643年)の今日、徳川家光将軍が臨終の床を見舞われ、薬湯を給仕される中108歳で亡くなられました。今から30年位前から天海上人が明智光秀であると言われ出し、チラホラとそんな学説が本に書かれる様になりました。

 徳川家康、秀忠、家光と三代の将軍から信頼されて、「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」と呼ばれ顧問的な存在でした。常に法衣をまとい、内密に将軍の精神的なアドバイスをしておられたそうです。本能寺の変の後に明智光秀が家康と交流を持たれたのが70歳過ぎでした。
 三代の将軍の相談役として時を過ごしていたある日、城中で柿を頂いた天海上人がその柿の種を持ち帰ろうとされたので、家光が不思議に思い尋ねると、帰って自宅の庭に植えるのですとの答えに家光は『桃栗3年、柿8年』と言われているのにその時100歳近かった天海上人に『気の長い話だ。』と失笑されました。それに対し天海上人は『将軍ともあろうお方が、物事を性急に判断されてはいけません。』とたしなめられました。それから数年経って天海上人は見事に実った柿を献上されたのです。家光は驚かれて『気を長く持つ事が長寿の秘訣かもしれない。』と感心されたのです。

 家康の御遺訓が有ります『人の一生と言うものは重荷を背負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、心に望み起こらば、困窮したる時を思い出すべし、堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害其の身にいたる。己の行動を反省し、他人を責むるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり。』

 徳川将軍三代に渡り、仏教的な精神を説いて来られた天海上人により、各将軍が広く慈悲深い心になり、徳川が続いたと思われます。

合掌