真の信仰

 いつも説法を熱心に聞き信仰歴の長い方が、他人が悩んでいるのを見て「御神仏が見ておられるのだからお任せですよ。全てお任せしたら気持ちが楽だよ」と言っていた人が病気になり、クヨクヨと悩む様になりました。「御神仏にお任せの考えはどこへ行ったの?」と思います。ここでハッキリ解かったのは、この方は信仰しているつもりでも、御神仏から見られると本当の信仰が出来ていなかったのです。信仰について間違った考えをしていたのです。それは信仰していたら病気にならない、貧乏しない、交通事故にも遭わない、全て思い通りに上手くいくと思っていたのです。本来の信仰とは自分を見つめる機会を与えて下さる。それと今世で自分が受けなければならない修行は、どんなに嫌なことでも辛いことでも避けることは出来ません。信仰をしていると、ある程度人生の指針はお導きいただけます。しかし最終的には自分を見つめ、自分の本心に出会わなければならないのです。

 驚いたのは御神仏が個々のことをしっかりと見ておられたことです。私は、この時迄この方が他で不満を言っていることを知りませんでした。もちろん私の前では大変信心深い方に見えていたのです。ある日、お加持をして御神水に入れる薬を頂こうとした時、お大師様が、「この者は残念ながら信仰の基本を忘れている」とおっしゃったのです。こんなに熱心な人が?と思いながらもう一度お薬を頂こうとしても、頂けないので不思議に思い「お医者さんにはどう言われました?」と聞くと、「病気は治ったと言われたけど、思うように動けないので不満を言うと、精神科に回されて薬をもらいました」と言うのです。昼も夜もその薬を飲んでいるのでボーッとして、更に動けなくなるのです。自分は先祖供養も長年してやったのに、今月から先祖供養もやめます。それは「取引」でしていた信仰だったのです。他人には「お任せですよ。どんなに辛い事があっても神様は見ておられますよ。自分の修行だと思って頑張らなければ~」と言っていたのに、お大師様は「病気や事故は、あの世からのメッセージであり、進級テスト問題集のようなものだ」とおっしゃいました。これらは自分の信仰度をチェックし見直す機会を頂いているのです。その答えによって進級するか、落第点をとるかが決定します。自分ではしっかりと信仰していたつもりが、いざ自分に災難がふりかかった時、如何に落ち着いて対処出来るか?他人事でなく常に自分の身に起きると想定して、正しい信仰をしなければなりません。この様に信仰とは全てを助けて頂くものではなく、自分自身が御神仏に助けて頂ける人間か否かを問い掛ける場所でもあり、そのスタートラインに立てたか否かを確かめる所でもあるのです。御神仏との取引的な信仰はやめて、信仰に対する考えを正しく改めましょう。 合掌