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2011年上半期法話
慣れは大敵
ある男性が勤続40年、大会社に勤めて定年で退職する事になりました。
真面目で部長に昇格して10数年経ち、協力工場など対外的にも誰からも部長、部長と、もてはやされました。仕事をしながら様々な人間関係を築き、自信が持てたので退職後は自分で商売を始めました。起業して周りの人達に開業の挨拶に行き、そこで大変驚きました。あれ程、自分の事を慕ってくれた人達が、皆よそよそしく応対する事に気が付いたのです。皆通り一遍の挨拶しか返って来なかったからです。自分が好かれていたのではなく自分のバックにある会社の大きな存在に他人が頭をさげていたのだ、と言う事を思い知らされました。
自分を慕ってくれたのでもなく、尊敬は勿論の事、自分自身に能力があったから皆が近寄って来たのでもない事を痛感しました。そんな事にも気付かなかった自分の愚かさにしばらくは落ち込んだ様子でした。これは過去に大会社に勤めていた人達が、たいてい経験する事です。この男性も部長に昇進してからは、頭を下げられる方が日常多かったので、それが当たり前になっていたそうです。
現代はテレビが占領している部屋に、昔は神棚や仏壇がありました。テレビは自分勝手な考えでチャンネルを選び、それを見て自分が批判する立場になれますが、他人に頭を下げられていると、次第に自分が偉くなったと勘違いし錯覚を起こします。何故かと言うと自分が頭を下げるべき神棚や仏壇が少なくなり、礼拝する事がないので自分で頭を下げる事もなく、自分の生きる姿勢に自分は正しいと思い込み、何の疑問も抱かなくなります。その結果他人からの意見や注意、教えを聞いても自分に都合の悪い事は全て他人事としか思えなくなります。これでは絶対に人間向上はしません。浄土真宗の蓮如上人曰く「村すずめには困ったものだ。初めは脅せばすぐ逃げたのに、慣れてしまうと鳴る子に乗って来る。」これは人間をすずめに例えて、人間関係を表しているのです。
自分の家の中に美味しい物が沢山あるのに気付かず、私達は外へ外へと目を向けます。私も日本を離れ、インドや中国へ旅行に行って初めて気が付きました。日本には美味しい物が沢山あるしホテルも清潔です。私は現地の食べ物が全く口に合わず、日本から持っていったカロリーメイトを数日食べて過ごしたのです。その時驚いたのはこんなに美味しい物だったのかと感じたのです。おそらく日本にいると食べなかったと思います。日本人は特に物が豊富であるのに慣れて有難みも分からず、むしろ慢性欲求不満患者になっているのです。もちろん医者では直りません。御神仏が何時も説かれるのは信仰に慣れは禁物だとおっしゃいます。慣れると神棚や仏壇にも手を合わす姿勢が違って来る。
御神仏が説かれる法話にも自分の事だと思わず他人事だと思い、一生懸命聴こうとしなくなる。この様な事が続くと自分自身の人間的な向上はなく、他人を批評するだけの人間になっているであろう。まるでテレビを見て批評する様に。この様な結果にならない様に絶えず自分自身を振り返り、見直す事が肝心です。また時には他人の意見をしっかりと素直に聞き、自分に取り入れる努力が大事です。何事にも慣れは自分自身の向上にとって大敵です。もう一度信仰の姿勢に慣れはないか、見直して下さい。 合掌
人生の落とし穴
毎月1日(月曜以外)にゴマを修法しているなかで、15年ほど前のゴマ修法中に忘れられない場面がありました。それは大変美しい月が空に輝き、その月が海に映っている景色です。月の光が海面に映えて、とてもきれいでした。お不動様のお話しは「人々はその美しい光に惑わされる。上を見上げたら真実の月があるが、海面や湖面に映った月は、さらに神秘的で美しく見えるもの。その月に人間は惑わされやすい。真実は上にある」ここでの真実とは、御神仏が説かれる説法です。そして湖面や海面に映った月は、我々が会話をする様々な話です。同じような月に見えても、それは波がざわめき立つと散って形もなくなります。それは本物ではないからです。ところが多くの人々は色々な話に惑わされてしまいます。物事は本物を見極める事が大切です。一見同じように見えても全然本質とは違う、とお不動様が説かれました。しっかりと信仰して、ゆるぎない心を養う事によって心がぶれない。ぶれないと言う事は心がしっかりと安定している。その安定した心が幸せを呼び込んでくれるのです。
しかし私達のライバルは他人ではなく自分自身の心です。何故なら心はどんなに満たされても次々と要求してきます。その心に打ち勝たなければ、絶対に精神的な幸せはやって来ません。多くの人々は願い事が叶った瞬間に感謝を忘れて次の願い事を口にします。まず感謝をするべきであり、感謝を忘れると次は助けて頂けません。この様に人間は次から次へと欲望が出て来ます。これを考えるとやはり一番の強敵は、他人ではなく自分の心である、という事を自覚するべきです。私が感じたのは信仰に慣れてくると必ず人生の落とし穴があります。その落とし穴の種類はそれぞれに違います。それは修行の形が一人一人違うからです。御神仏は信仰が深くなると、その人の本質を出させます。本質を出すことによって悪い所を自分で気づかせて直す修行に入るからです。一般社会では気づかなかった醜い心が表面に出て来ます。信仰の中では一般社会の様に地位の差別が無く皆平等だからです。会社では社長や部長などの役職があり、その他色々な人間的なしがらみもあり、多くは上司の命令に従いますが、信者さん同士は利害関係もなく平等なので、それぞれの人達が意見を持っています 。自分の思うまま感じたままの意見を出し合います。その結果他人から自分の欠点を容赦なく言われた時、そこから逃げ出したくなります。
残念に思うのは信仰を辞める多くの原因は人間関係です。ちょっとした誤解で人間として一番大切な信仰から離れてしまう事です。そうなった時人々は自分の欠点を見直さず、他人が悪いから自分がこんな結果になった、と他人を責める事になります。これが高じると自分の周りが信じられなくなり、自分だけが正しくて、自分のまわり全てが悪魔に心を奪われたと考える様になります。これが精神的な危険のバロメーターです。これは他人が悪魔に心を奪われたのではなく、自分自身の心が正常ではないのです。これも人生の落とし穴です。しっかりと御神仏の説法を聞いて、落とし穴に落ちない為に、自分の心がぶれない様に気をつけましょう。 合掌
苦を逃すな
今、日本で一番話題になっているのは東日本大地震です。死者と行方不明の方々を合わせると3万人近くになっています。いくらお悔やみや激励の言葉を掛けても言葉では言い尽くせない悲しみや切なさがあります。子供達がお母さんや家族を呼ぶ声や姿をテレビの映像で見ると涙が止まりません。亡くなられた方々は、おそらくしっかりとお葬式をされていないと思われます。地震以来、夜中の本堂での修法で、その方々の精霊を招いて引導を渡しました。想像をはるかに超えた方々の魂が集まって来られました。ほとんど毎日行いますが聖天堂で、その事を御神仏にお伝えした途端に、後ろのガラス戸の音が激しく鳴り止まなかったのです。慣れている私でも、さすがに不気味で思わず振り返りました。私に今すぐ出来る事はこの様に引導を渡す事しかありません。さまよう苦しみから少しでも救って上げられたらと心から願っています。
皆様からも寄せられるのですが、義援金は神戸の時と同じ様に本山の醍醐寺で集結して、被害者に渡される事になると思います。詐欺まがいの寄付行為も多いと聞きますので、お気持のある方はこちらにお持ち下さい。長い月日で行いますので一度に寄付されなくても良いと思います。宜しくお願い致します。皆様も報道で見聞きして精神的に落ち込むとは思います。全国的に自粛ムードが高まっている中での余計に日本の経済活動も低下し、経済的支援や救済をする事も出来ません。せめて被害に遭わなかった私達はエネルギーを溜め込んで、必要な時に何らかの形でお役に立ちたいと思います。この後の施食会でも被災者の方々の御供養も致します。
今月はお釈迦様の生誕月です。今迄お釈迦様から様々なお言葉を頂きましたが、私達が人生で何度か遭遇する苦についてのお言葉の中からお話し致します。『人生は万華鏡の中に居るに似通っている。万華鏡の色とりどりがあってこそ美しい形に表現される。自分の気に入った色で染められる時もあれば、暗黒の時もある。その色が気に入らないからと逃げる事は、自分に与えられた修行、つまり苦から逃げるのも同じである。苦から逃げると永遠に苦しみの中から逃れる事は出来ない。むしろ積極的に自ら苦を取り込み、早く脱出する方法を考える方が得策である。苦に出遭ったらしっかりと苦を掴め。信仰は奇跡を起こすものではなく、現状をそのまま素直に肯定する心を養うものである。大忍を大船とし、これをもって人生の苦難を渡るべし。本当に人間らしく生きたいのならば、勇気を持って捨の心に徹せよ。取の心は捨の心の100分の1で良い。真の勇気を持て。この世の幻の品々に心躍らせるな』「若いうちの苦労は買ってでもせよ」と諺にもありますが、自分に与えられた苦から逃げる事によって、来世でその苦は数倍となり行じる事になります。「捨の心」とは欲心を捨てる事です。「取の心」とは生きて行く上で必要不可欠な欲心です。取の心は我欲の心の100分の1で充分だと説かれているのです。
今回の大災害の中で一つ自覚しなければならない事があります。それは災害にも遭っていない私達は今で充分幸せだと言う事です。 合掌
眼に見えないもの
春風が庭の梅の香りを運んでくれる季節となりました。こんな環境に日々身をおける事に喜びと感謝の気持が自然に湧き上がります。これも信仰の道でお手伝い出来るからだと、つくづく感じます。しかし信仰心の無い方は眼に見えない物事を信じません。相談に来られても自分の答えを初めから持っていて、思い通りの答えならば聞き入れますが反対の答えだと詳しく聞きもしないで帰ってしまいます。
忘れられない出来事の一つに鹿児島で大会社を経営している昔からの資産家のお話があります。その方の家は大変広く「庭の手入れをするのに観音様が邪魔になるので動かしたいのですが」と相談に来られました。初代のお婆さんが観音様をお祀りして本当に熱心に拝んでいたそうです。そのおかげもあってか家運が急上昇しました。しかし、今の当主になってから観音様を拝まなくても、もともと家は金持ちなのだと思う様になりました。当主がそんな考えですから子供達も誰も拝まなくなりました。そこで霊視した私は「この観音様は絶対に動かしたら駄目です。もしどうしても移動するのであれば私が良くお願いして、どこの位置ならお気に召すか観音様に伺ってから御指示通りに動かして下さい」と言うと、その方は「馬鹿馬鹿しい。石に聞くって、そんな事ある訳がない」と言って、その後の詳しい話も聞かずに直ぐに帰ってしまいました。その後、面倒くさいからと言って、町内の方々に「観音様を誰か貰ってくれる人はいませんか?」と呼びかけました。町内の方々は「そんなもったいない事を」と言い、頂くことにしました。当主は最後にお礼の供養もせず観音様を邪魔者のように庭から放り出しました。その方はこれで庭を立派に自由に庭師に任せられると、ある意味せいせいする感じでした。町内の人々は空き地をつくり、そこに観音様を安置しました。
ところが一年も経たない間に数社あった会社がバタバタと倒産し、一番上の息子さんも大会社を経営していましたが、急に全盲になり病院で診察しても原因は不明でした。下の息子さんは出勤途中の自動車事故で即死。相談に来られた本人も急に全盲になったのです。家族で二人の方が全盲になりました。その後、観音様がおられた立派な家も売らなければ食べてもいけなくなりました。代々観音様に助けて頂いていたのに恩を忘れ、いつの間にか自分たちの力で財を成したと勘違いをしたケースです。
この場合、観音様が罰を当てたのではありません。観音様を追い出して観音様のお光を頂けなくなった結果、こうなったのです。御神仏は決して罰は当てません。守って貰えなくなっただけのことです。人間の愚かさが良く出ている実話です。四月は施食会です。眼に見えない御神仏や御先祖様を大切に致しましょう。合掌
柚子(ゆず)の木
寒い時は鍋物が一番ですが、鍋を食べると柚子の話を思い出します。柚子の木は、植えたらすぐに実るわけではないそうです。何年か経たないと実がなるか、ならないか解らないそうです。実らない場合は、よく実のなる木の枝を取って来て実らない方の木にひっかけてやると必ずなるそうです。笑い話の様ですが、柚子は何年かキョロキョロしている間に自分がみかんか柿か、いちじくか何かわからなくなるそうです。もちろん本来は柚子ですから、みかんも柿もなりません。数年経つうちに中途半端になって、柚子も実らなくなるのです。そこで「お前は柚子だ」と思い出させる為に他の柚子の木を挿し木したり、実をそこに引っ掛けると、「あっ、そうだ、自分は柚子だったんだ」と思い出してがんばるそうです。柚子を作る方からお聞きしたので本当の話です。
その話を聞いて人間も似ている所があると感じました。人間が大勢の人の中に入ったら、自分がどんな人間か分からなくなってきて、男性が男らしくなくなったり、女性が女らしさを忘れたり、どちらが男か女か判らない人が多くなってきました。それを突き詰めて行くと、人間自身が本来の人間らしさを忘れているのではないでしょうか。人間も環境が大事です。御神仏の法話を聞いたり、優しい家族や他人が周囲に居たり、良い仕事仲間や先輩がいるなど良い環境の中にいると、人間らしい心が芽生えてくる訳です。御神仏から見られると肉体だけでは人間の形をした動物であり、本当に良い心が備わって初めて人間だと御神仏に認めて頂けます。従って動植物は本来の自分になりきろうと思うと全て環境が大事です。
ある家の庭に40年以上も植えてある花を咲かせた事が一度もない立派なキンモクセイの木がありました。その後1000坪もある土地を全て更地にして、新しいマンションを建てる事になりました。最後にそこの奥様がキンモクセイに向かって怒ったのです。「あなた何なの?キンモクセイに生まれながら花を一度も咲かせないで、何の為に生まれて来たの?」と木の前でどなりました。すると、その年に狂った様に沢山の花を咲かせました。何十年も中でじっと育っていたの?と思うくらい見事に咲いたのです。木も人間の言葉をしっかり聞いていたのです。世界一のカボチャを作った人も「大きくなーれ、大きくなーれ」と毎日語りかけていたそうです。
人間は他の動植物に比べ素晴らしい才能をたくさん持っている事を考えると、自分の能力を活かさないと損です。才能を持っている人や頭の良い人に出会うと、自分はダメだな〜と思う事があります。御神仏にお聞きすると「そちはそちだ。世界で自分一人しかいない。どんなにあがいても、たった一人しかいない存在だから、その大切な自分を活かすが良い。鰯(いわし)は鰯にしかならない。鯛は鯛でしかない。鯖は鯖でしかない。鰯が鯛になりたいと思うから無理がある」先程の柚子やキンモクセイの話ではありませんが、本来の自分にもなれずに終わってしまう。もしこの世の中で全部の魚が鯛であったならば、食べ飽きて魚など見向きもしなくなるでしょう。鯖も鰯もあり色々な味を楽しめるから、魚を食べたくなるのです。人間もそれぞれの長所を活かす様に努力する事が大切です。自分自身も大切な様に、他人もみんな大切です。他人の長所も誉め、それを伸ばす事が大事です。私達人間は自他共に全て尊く大切であることを忘れないで下さい。 合掌
新年の言葉(2011.1)
新年明けましておめでとうございます。昨年も色々と御協力頂きまして誠にありがとうございます。本年も何卒よろしくお願い致します。
小林一茶が新年を迎えて詠んだ句があります。「めでたさも中ぐらいなり、おらが春」おそらく晩年の作だと思います。私も年を重ねる毎に、この一茶の気持が分かるようになって来ました。子供の頃は指折り数えて待っていた楽しいお正月が、いつの間にか、あぁまた一年過ぎてしまった、と溜息と共に新年を迎える自分があるからです。御神仏に年は数えるなと言われましたが、新年だけはどうしても、また年を取らなければならないのかと思ってしまいます。「時は人を待たず」で世の中の残酷な事の一つは、年を重ねる事だなあとつくづく思います。でも一茶はこんな暗い気持ちばかりで、この句を詠んだのではなく、今年もまだ生かされている。ありがたいなあ、と思うほのぼのとした暖かさが『おらが春』の言葉で伝わります。まだ生かされるのなら去年より今年、今年より来年と無駄のない月日を送らなければもったいない。ただボ~ッと無駄に生かして頂くと申し訳ない。努力した後は「人事を尽くして天命を待つ」気持ちで暮らすのが一番です。
今年も元旦に初ゴマを修法し、お不動様に新年のお言葉を頂きました。私達がこの世に生を受ける時、今世での生活に組み込まれる物事があるそうです。それは前世で既に体験した事とプラスして、今世でチャレンジする事を一つ組み込んであるそうです。それがどれであるかは教えてはいただけません。自分の人生を真面目に努力して、ある年数に達した時、必ず自然にたどり着く様になっています。例えば私の場合、僧侶は今世で始めて経験する事です。これは今までの前世では体験していないので、相当な努力が必要です。もしその努力が実って自分に課せられた事柄をやり遂げた時は、あの世に帰った時に3ランクアップするそうです。その結果、来世に生を受けた時は、今よりずっとレベルアップした人生が送れるようです。組み込まれる物事は自分が努力を重ねれば必ず実らすことが出来る事柄です。それは自分自身にその能力が備わっているから可能なのです。今私達が体験している事柄は前世で体験した事に加え、自分に与えられた能力で解決出来る事柄です。従って何事も出来ないと思うのは間違いです。この世での事柄は全て努力次第で解決出来る物事ばかりですから出来ないと最初から決め込まない事が大切です。何が自分にとってチャレンジするべき事柄かを自分自身の心と問答する事も、この世での修行の一端であるとお不動様はおっしゃっていました。食わず嫌いと似ていますが何事も初めから自分に出来ないと思い込まず、今年は自分に問い掛けながら努力し、チャレンジ精神を持って進んで下さい。今年も悩みや苦しみの時は勿論の事、楽しい時や嬉しい時にもぜひ聖法院へお参りして下さい。心の故郷として今年もよろしくお願い致します。寒い中お参り有難うございました。 合掌
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