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2010年下半期法話
鑑真大和上の言葉(唐招提寺参詣時)
唐招提寺は763年76才で亡くなられた唐の僧、鑑真大和上が創建されたお寺です。仏教者に正しく戒律を授ける導師として日本から招かれて67才で来日し、5年間東大寺にて生活をしておられました。お釈迦様に礼拝し鑑真和上についてお聞きしたいと願った時、直接聞くが良いと言われた瞬間、魂が別室に移動した。不思議を感じたまま立ち尽くしていると、少し離れた所から鑑真和上の声が聞こえました。突然でしかも小さなお声だったので何を言われたのか定かではありません。
私は日本に来られて今に至る迄の感想は如何ですか?とお聞きしました。しかし自分でもこの質問は余り感心しないと感じていたら、鑑真和上は黙然して、暫く私の顔をじっと見据えておられた。私にとっては随分長い様に思えましたが、後で考えると1分も経っていないことに気付きました。ゆっくりとした口調で「日本の国の噂を聞く度に心を動かされ、どうしても日本に渡りたいと思っていた。千数百年経った今、あの当時の苦労を思い出しても、どれ一つとして大した苦労とは思えない。たとえどんなに苦労したとしても、これが私の宿命であった事には間違いはない。きっかけはその当時盛んになった日本での仏教を、もっと正しくしっかりと確立したものにしたいと願われたその時の朝廷からの要請で、それに応えられる僧に話しをしてみたが誰も日本に渡る事を承諾しなかった。考えあぐねた末に自分自身で日本へ行く決心をした。その時代中国でも正しく仏教を取り入れる時代であり、拙僧(せっそう)も人々から信頼されていた時期で、またその時代の中国は割合に閉鎖的な所があり、私が日本に渡る事を快く思っていない人達も多く、様々な事柄を運ぶのに思うに任せなかった。随分迷いもしたが日本に比べるとまだ中国の方が仏教について安定している感じがした。またその勉強に長けた僧も多く居た。それで決心をして日本へ向けて船に乗り込んだ。しかし数度の挑戦にも船は嵐に遭い難破し、引き返さざるを得なかった。まるで自分の行く末をはばむかの如くであった。一度ならず災難に遭うのは自分自身が己の運命に逆らっているのか?と何度も考えた。これを最後にと6度目の挑戦で遣唐船に乗り込んだ。これで日本に着かなければ諦める決心をしようと思ったが、日本を想像し益々行きたいと思う願望が自身を強く刺激した。こんな自分が知らない国で役に立てるのなら、と心から感じた。
長い長い航海の末、目的地とは遠く離れた薩摩の国(長崎県)にまるで不時着の様な思いで港に船を寄せる事になった。そこから丸二ヶ月を費やしてようやく大阪の港に着いた。その時自分は次第に悪くなっていった眼の病に掛かっていた。長い航海の疲れや塩風を目に頂いたせいで、次第に失明に進んで行く事を免れる事は出来なかった。日本にようやく辿り着いたのを待っていたかの様に、私の目は急激に悪化して行った。その時の天皇(聖武天皇)のたっての要望によって来日した私は、ただただ私を信じて頼ってくれた人々に応うるべくして、その使命感だけであった。初心から実に11年数ヶ月経っていた。
当時日本では勝手に僧になりたがり、確かでない仏教になりかねない状態であった。そんな日本を守る為に、ひたすら私の来日は間違いではないと自分に言い聞かせた。失明が自分自身の魂を仏教に向けて尚も駆り立てた。始めのうちは何故この大切な時期に眼が見えなくなったのか?と自問自答したが、ふっとこれも自分の宿命だと考え、悩む事を止めた。すると目が見えなくなった分、集中して物事を考えられる利点がある事に気付いた。余計な物事を見る事なく、仏教に全ての情熱をかけられる様になった。もし全ての物事が見えたならば、思考力の妨げになっていたであろう。見なくても良い余計な物事まで見えたとしたら、中途で挫折したかもしれない。様々な思いが募ったら故郷に帰りたくなったであろう。しかし肉眼を失った代わりに心の眼はしっかりと見開いた。何事にも邪魔されず、打ち込む事が出来た。その様に一人一人正しく結縁の道場を開き、その者達に御仏に導く事が出来た。これに勝る喜びを未だ私は知らない。私の前に来た者達はそれぞれに多少の優劣はあっても心から仏教に傾倒して行った。その者達の成長、もちろん精神的な成長を感じるにつけ、私は日本に来た事が間違いではなかったと確信した。その喜びと共に自分自身の魂の向上を感じる事が出来た。
しかしあれから千数百年以上の年月を経て日本を見た時、いや日本だけに限らず、祖国の中国も含め、人々の魂の霊格が著しく下がった事を感じさせられる。これを思うと非常に残念で堪(たま)らない。現代の人々の肉眼は開いているが、盲目としか思えない。人間にとって大切な物を見失い、真実を見ていない。私が伝えた心の一部でも残っているならば、どうかめしいたる者達の心の眼を開かせる為の伝教に力を貸して欲しい。どうか千年前の教えを無にしないで頂きたい。これが今の私の心からの願いである」 合掌
「選ばれた私たち」
お参りに来られた方から「信仰が大事だと言うけど、念仏や御真言を唱えたら何か良い事があるのですか?」と尋ねられることが時々あります。その時にお答えしていることは、良いことは必ずありますが今日、御真言を唱えたからといって明日から良くなる訳ではありません。何故ならば今迄数十年も放置していた御先祖様を拝み始めたからと言って、すぐにご利益を要求する考え方がおかしくはないでしょうか?御神仏に対しての礼拝についてもそうです。この世に生きているだけで知らない間に御神仏に助けられている場合が多くあります。それに対して感謝もせずに生きて来たわけですから、まず感謝から始めるのが妥当な考えです。
信者の皆さんに御真言を唱えて下さいと言うと「南無尊帝そわか」や「南無阿弥陀仏」等どんな御真言でも心から唱える事が出来ます。しかし信仰心の薄い方に「南無阿弥陀仏」を唱えてみて下さいと言うと「そんなの個人の勝手だろう。今唱えたくない」などとおっしゃいます。「個人の勝手ですが、少しだけその気を起こして唱えてみてくれません?」と言うと、「唱えられません」とおっしゃいます。それに対しての御神仏は「唱えないのではなくて、唱えられないのだ。」とおっしゃいます。どういう意味かお解りですか?この世に皆さんが生まれてくる時、御神仏が願いをおかけになっていますが、真言を唱えられない人には願いをかけられていないからです。今世では修行をしたくない人、つまり休暇をとっている人なのです。その人達には御神仏も願いをかけていませんから、好き勝手にしても放置されます。その代わりあの世へ帰ると、もっと厳しい修行が待っています。あの世の修行は免れる事は出来ません。それだけでなく、来世生まれ変わった時に今よりも数倍レベルの落ちた生活になります。その上、精神的な苦しみも伴います。御神仏から見られた幸せと人間的に考えた幸せは全然違います。御神仏が幸せになってくれよ、と願われるのは金持ちになれよと言う意味ではありません。精神的に向上しなさい。本来の人間の魂に立ち戻りなさい、という意味です。
精神の浄化、向上をするには、どうすれば良いのでしょうか?この世に生れて来た一番の目標である人間修行です。例えば暑いのに遠い所をお参りに来られる。これも修行の一つです。修行する事はとても大事ですが、行き帰りの道中で不平不満を言いながらだと何の効果もありません。隣り合わせた人も不平不満を黙って聞いていると同罪です。プラスになるどころかマイナスになってしまいます。信仰は表面的な形だけではなく心も浄化して行かないと修行にはなりません。御神仏は皆様の色々な願い事を全部叶えてあげたいのですが、その人固有の修行の段階もあり難しいわけです。私達は御神仏にたくさんの借りがあり、その返済もしなければいけません。私達は全員御神仏に対してローンを抱えています。従って積んだ功徳によって、すぐに願いを叶えて頂ける人、願いは叶わないが功徳ローンの返済に回される人、あの世での貯金に入金される人、その人の修行段階によって様々です。功徳を積んでも全然何にも貰ってない人は一人もいません。
この世に生まれて来た私達は偶然生まれて来たのではなく選ばれて来た人達です。1ミリリットルの精子の中に6000万人分いるそうです。考えると数億人の人をかき分けて、自分がトップになってこの世に生まれて来た訳です。その生まれるというだけで、既に御神仏から見られると有り難い事なのです。御神仏にそれだけでも感謝して御真言を唱えるのが当たり前ではないでしょうか。その御真言を唱えられない。お念仏を唱えられないという事は御神仏に借りっ放しであの世へ帰る事になります。偶然生まれて来たのではない私達は敗者になった他の人達の為にも自分で出来得る限り、世の為、人の為に努力をしてあの世へ帰りましょう。それが私達人間としての使命です。 合掌
「法を活かす」
私達は全員煩悩をもっています。しかし煩悩を全部消し去る事は死ぬまで出来ません。あの世からでもまだ自分の欲しい物を注文する先祖もいます。ゆっくり寝たい、水が飲みたい、遊びに行きたい、美味しい物を食べたい、これら全て煩悩です。全ての煩悩を消す事は、例えば自分で自分の身体を持ち上げる様なもので絶対に出来ません。煩悩で満たされた至らない我が身を御神仏にゆだね、今ここに生かさせて頂いている事を自覚し、感謝する事が大事です。
お大師様は「人間は法を学ぼうとはする。人間は皆弱い精神を持っているので信仰しようとは思う。しかし、そこで留まっている。法というのは真理であり、それを一生懸命学ぼうとする人間は多いが、法を活かせる人間は少ない。説法を聞き良い事は理解するが、法の上に立って行動する事が出来ない。法は学ぶだけではなく、法を活かした生活をせねばならない」とおっしゃいました。私達は様々なお願いを御神仏にしていますが、逆に御神仏も人間に願いをかけて下さっています。何を願っておられるか?と言えばあの世は全て法の中で守られています。「可愛い子には旅をさせよ」との諺通り、人々は現世に生まれたら一旦法を離れた俗欲の世界に入ります。その中で私達は積極的に信仰し、法を学び、再び法の中に戻って行きます。ところがお大師様がおっしゃるには100人に1人も戻れないそうです。御神仏が我々に願っておられるのは、この世でしっかり修行をして、本来の人間の魂に出来るだけ近づいて、あの世へ帰って来い、という事を阿弥陀様やお釈迦様が心から願っておられます。我々は願われてこの世に生まれて来ました。御神仏に願われている事は大変貴重な事です。この事を忘れず感謝しながら自分自身の事だけではなく、他人の事にも思いやりながら生きる事が、法を活かして生活する事に通じます。
皆さんも頭では色々な法を学んで信仰していますが、いざ自分の身にふりかかると、とんでもなく勝手な考えの自分になっている場合が多いようです。例えば電車をよく利用しますが、JRの電車に運転を見合わせる時間が割合多いと感じました。その時いきなり車掌さんに怒鳴る人がいます。よく聞くと踏み切りの人身事故の時が多いのですが、それは車掌さんの責任ではないので怒鳴っても何の解決にもなりません。この人も大変だなあ、と考えると少し腹の立つのも治まるものです。皆さんも様々なトラブルに巻き込まれたり、嫌な目に遭うかもしれませんが、自分だけの事を考えるのではなく、そんな時こそ落ち着いて、周りの状況も考えて「南無大師遍照金剛」「南無尊帝そわか」等の御真言を心で唱えながら静かに対処を待ちましょう。それが法を活かした生活へとつながります。 合掌
「仮想現実」
今年の立秋は8月7日で暦の上ではとっくに秋になりましたが、残暑の厳しいこの時期に嫌な事はムカデが出る事です。蛇とムカデが一番苦手なのですが、ムカデ恐怖症になっていると夜中にワラビの煮物が落ちていてもムカデだと思い、紐が落ちていると蛇だと思いビックリしてしまいます。
「仮想現実」という言葉がありますが、大阪の尼寺の方が買い物の帰りに公園で休んでいると蛇が出て来たそうです。その人も蛇が一番苦手でテレビで見ても気持ち悪いそうです。次の日、公園に行くと一匹だった蛇が二匹出て来たそうです。その次の日も恐いもの見たさで公園に行くと三匹、四匹と増えていました。恐いので近所の人達に話したそうです。すると、「今迄公園で蛇なんか見た事もない。あなた精神病と違う?」と言われ、精神科に行き医師に話すと、「恐いと思うから蛇に見えたのと違いますか?」と三軒くらいの病院で言われました。
最後に大阪の森田療法という心理学の先生の所に行き「公園に数匹の蛇が出て来て、あそこに行くのが恐い」と訴えると、そのお医者さんは「僕も見た事あるよ。三匹も四匹も大きい蛇が出るよな」とおっしゃったので、尼さんはそれ見た事か、やはり他の医者は薮医者だ。我が意を得たりと思い「幻ではないですね?」ともう一度訪ねると、お医者さんは「幻ではありません。僕も知っていますよ」とおっしゃったのです。尼さんは「どうすれば良いでしょうか。恐くて仕方がないけど、そこを通らないと家に帰れないのですが」すると「僕も研究の為に、どの位の長さの蛇があそこに住んでいて、何匹いるのかを知りたいので明日から報告して下さい」とおっしゃったのです。その尼さんは使命感に燃えて毎日公園へ行きました。ところが、それっきり蛇は見かけなくなりました。真実を見極めようと思って行くと蛇などいないのです。お医者さんも解っていてその心理療法をとったのです。結果的には、それで恐がりと思い込みが少し直ったそうです。
御神仏がおっしゃるには、人間関係もこれと似通っている。あの人は悪い人だ、この人は意地が悪い、この人は恐い、そんな気持ちで見ると真の人間性を見極め出来なくなります。恐怖心も一種の執着心だとおっしゃいました。今回の場合も自分の身体に害をあたえられないかと、かばう気持ちが恐怖心となり、真実を見極める事が出来なくなったのです。
御神仏は私達の心の中に煩悩の草が生え続けているとおっしゃいました。その草を放置していると、草は一時的には冬の様に枯れますが根はいつまでも残ります。抜きやすい心の状態の時に抜く。それが修行の一歩です。私達がこの世に生まれて来る時に何を考えて生まれてくるのか?今度こそは真面目に修行をするぞ、一生懸命修行して良い所にステップアップするぞと思って生まれて来ます。ところが生まれて来たら楽しいことが沢山あります。美味しい物や興味をそそる事柄も色々ある。お金も欲しい。つい修行を忘れて他の方面に目移りします。そのうちにずるずると年数が経ち、そのまま人生の時間切れとなり、あの世からのお迎えが来たときに、初めて「しまった」また同じ事を繰り返してしまったという事になります。何の目的で自分達はこの世に生まれて来たのか。来世のステップアップの為の修行であるという事を忘れずに修行して功徳を積まなければ、心の中の雑草は根っこから抜く事は出来ません。その事を自覚して日々精進努力して頂きたいと思います。 合掌
「一呼吸」
お釈迦様が『寿命は一呼吸です。一呼吸一呼吸をつなげたものが一生です』と説かれました。自分は平均寿命までは生きる、と思っている人が多くいまが、若い時は「50才迄生きたら充分です」と言っていた人が、もうとっくに70才を過ぎているので「あなたは何歳まで生きたいの?」と聞くと、「認知症にならずに動けたら、ずっと生きたい」と答えます。これが人間の本音です。
しかし寿命や金運だけでなく、色々な物事に対しても自分の人生における升は決まっています。升の大きさは前世での因縁や今世での言動により各人違います。他人の升と比較しても意味がありません。やはり升が小さな人は妬みや他人の幸せを喜べない人が多いようです。今世でもその様な言動を続けると、来世では今よりも、はるかに小さな升を持って生れる事になります。他人の幸せを上辺で喜んで、影で悪口を言っている人がありますが、潜在意識はそのまま覚えこむので、嘘はすぐ見破られます。他人の幸せを本心から喜ぶ事が大切です。
皆様は説法を聞いていますが、悩んだ時にその話を活かす事が出来ていますか?説法を活かし、自分自身で努力をした後は、ただ淡々と自然を受け止めるという気持ちが一番正しい生き方です。悪い事が起きた時、ただ悩むばかりで努力をしないと、そこにいつまでも停滞してしまいます。もっと悪いことは、努力もせずに過去ばかり振り返り、あの時に違う道をたどれば良かったのではないかと後悔することです。お大師様は『どんなに優れた人間でも生きていると何度か不安や迷いが生じる時が必ずある。その時にしばし立ち止まって考える事は良いが、決して後戻りをしてはいけない。人生少しでも前に進む事だ』とおっしゃいました。その時に重要なことは、前向きな気持ちで努力し、行動を行う時でも様々な物事に対して利己主義にならない様に気をつけることです。
お釈迦様の教えは、自分だけが良ければよいと言うのではなく、皆と共に正しく信仰し、皆で一緒に幸せになろうとする大乗仏教の考え方です。しかし、お釈迦様は『三回正しく導いて聞く耳を持たない人に対しては、しばらく放っておいて真剣に話を聞く人に大切な時間を費やしなさい』とおっしゃいました。他人に話をし、聞いて頂く事はその人のためだけではなく自分自身のためです。それは、話をすると自分の声が必ず耳に入り、その結果、話の内容と違う言動を自分自身も出来にくくなるからです。私は禁煙します、と宣言するのと似ています。他人に話す事で更なる自覚をするためです。信者の皆様のお役目は法の種を出来るだけ多くの人に蒔く事です。お大師様も自分一人で種を蒔くのは限界があるので、影武者を使ってあちらこちらで説法をさせました。皆様の種蒔きが他人を助ける力になり自分の功徳にもなります。 合掌
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