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2010年上半期法話 信仰を続けるコツ 五月一日のゴマの時、お不動様から参列している方々に質問がありました。「信仰を続けるコツは何か?」皆からは色々なお答えがありましたが、お不動様のお答えは「信仰の心と人間関係は似通っている。どちらも大敵は<慣れ>である。例えばその関係が夫婦、親子、会社の上司、同僚、地域の隣人、その他様々な人間関係があるが、いずれも慣れ過ぎると日々の物事に対して緊張感を逸する。その結果全て自分の要望を聞いてくれて当たり前となり、人々は相手に対して次々と求める事ばかりが増えて来る。それがやがて自分の希望通りにならないと不平不満だけが残る。信仰も人間関係も親しければ親しいほど少し距離を置いて考える方が末永く、しかも正しく続けられる。」 「もう一つ忘れてはならない事を挙げると、信仰はもちろんの事、家族を含めた他人は、いくら近づいて親しくなっても全てを解り合う事は絶対に無い。信仰も人間同士も深くなればなるほど理解出来ない事も多い。相手の全てを知ったつもりになって、様々な言動を起こすことは間違いであり、自分の思い上がりでしかない。その結果必ず亀裂を生じ、それらの関係が上手く行かなくなる。特に気をつけなければならない事は、信仰を自分で辞めたつもりでいると、実は神仏から見放されている時が多い。どちらも相手に対する尊敬と感謝を忘れるでない。重ねて言うが大敵は<慣れ>である。とおっしゃいました。 慣れると緊張感がなくなる。例えば鳴動式ですが御神仏は一糸乱れない正装で御降臨されます。私はそれが解るので三十数年経っても絶えず緊張しています。しかし皆様は見えないので無理はありませんが、あくびをしている人があります。それを全部見ておられます。でもそれに対して特に御注意はありません。何故だか解りますか?御注意がない事を喜んでいてはいけません。注意する段階まで昇って来ていないからです。例えば子供が少々の悪戯をしても叱りませんし、大目に見ます。それは成長過程だからです。 私もこれまでに色々な体験をしています。まだ八尾のお寺が建った頃、夜中に拝む時に疲れと風邪気味で自然に生あくびが出ました。修法を続けようとした時、お聖天様が静かに「そんなに眠いのなら、もう下がるが良い。」とおっしゃり、ビックリしました。余りに静かなお声で何時ものお聖天様と違っていたからです。この事を今でも忘れる事は出来ません。いつもの様に大声でお叱りを受けた方がどんなに楽だったことか。その時、台から飛び降りて何度も謝り、顔を洗い、もう一度、最初から修法をやり直しました。当たり前ですがその夜、御神仏はもうお越しにはなりませんでした。私達は緊張の連続です。でもお叱りを頂けるのは幸せですね。神様が見ておられる事を忘れないで下さい。 合掌
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分家でも仏壇は必要? 最近、本家があるのになぜ分家の者達が、先祖供養をしなければならないのですか?という質問をよくされます。先祖の供養はした方が良いと言う事は皆さんお解かりなのですが、なぜ供養する必要があるのか?が理解しにくいようです。例えば両親共が元気な場合、今迄の御先祖様は本家で祀っているのに、なぜ自分達が供養料を納めてまで本家と同じ事をしなければならないのか?と疑問がわいてくるようです。本来の宗派が浄土真宗なのに、宗派変えをしていると分家は、本来の宗派に戻して祀らないといけません。もちろん本家も元の宗派に戻して先祖全員を統一した宗派で供養する事が一番良いのですが、人間的な考えの相違で出来ない場合は、気がついた自分達だけでも正しく戻す必要があります。現代は亡くなった人に戒名をつけない宗教がありますが、霊界では俗名のままでは通じにくいので、戒名は必ず必要です。 御神仏がおっしゃるには、人間の魂は三度生まれ変わらねばならない。一度目は、この世に生まれる事。二度目は正しい信仰に巡り合い心から御神仏に帰依し、精神的に生まれ変わる事。三度目はあの世へ帰り、生まれ変わる事です。消滅するのは肉体だけで、魂はあの世で留まり輪廻します。私達はこの世に生まれると同時に命名されます。同じ様にあの世に生まれたら、あの世に通じる名前として戒名をつけなければなりません。 また、霊界へ帰る時は必ず引導の作法が必要です。霊界への道中を浄土へと迷わず導く大切な儀式です。近頃葬式は要らないと言う人が増えているそうですが、霊界の事も理解せずに、あたかも自分は新時代の挑戦者の様に格好つけているのかもしれませんが、必ずあの世で苦しむでしょう。私達がこの世に生を受ける時、産婦人科の医師や看護士さんのお世話になり、初めてこの世に元気で生まれて来る様に霊界へ帰る時も引導の儀式をして丁重に送られるべきです。人生様々でどうしても葬儀が出来ない場合でも、最低限引導の儀式だけは受けなければ、いつまで経っても浄土に向かう事は出来ず、成仏出来ません。結果的に残された子孫へのさわりとして現れてしまいます。これだけはしっかりと覚えておいて下さい。赤ちゃんが生まれた時は名前をつけ、あなたの名前は一郎ですよ。一郎ちゃん、一郎ちゃん、と呼び続けると、赤ちゃんも自分の事だと自覚し、笑ったり振り向いたりします。家族が赤ちゃんに向かって名前を呼び、理解させることが引導の役目にあたります。 従って霊界へ帰る時も戒名が必要です。本家で全然戒名をつけていない場合は、分家が戒名をつけなければいけません。その役目は偶然自分がする事になったのではなく、前世からの因縁がめぐり巡ってお役目が回ってきたのです。この事を損だ、と考える人もいますが、その損以上の得分が必ず自分自身に戻って来ます。しかし十万円使ったから十万円以上の収入が現実に頂ける訳ではありません。自分の悪因縁を消し去り、子孫に反映される等、目に見えない物事で功徳を頂けます。数年後に気がつくと仕事の運気が上がっている人もいます。功徳を頂く時期や形は人によって様々です。 また霊界に帰った時に悪因縁が少なくなっているから早く成仏出来ます。その結果来世は、今よりずっと楽な一生が待っています。善行は施した人に功徳があります。人間は輪廻転生しているから平等なのであり、今世どんなに努力しても不幸な人生だとしたら、この不幸が永遠に続くのではなく、善行を積む事で平等に幸せになれると思うと希望が持てるでしょう。死によって肉体も魂も消滅してしまうのであれば、この世で好きな事をした者勝ちです。しかし、決してそうではありません。 本家の人でも実家の人でも、出来るだけ多くの御先祖様を正しく供養する事です。ただし苗字のちがう実家の御先祖様を自宅の仏壇に一緒に入れたり、念の入っていない仏壇を拝んだりなど、間違った供養をしても功徳にはつながりません。どうせ先祖供養をするのならば、不平や不満を持ちながら拝まない事、見返りばかり考えて供養しない事、それはかえってマイナスになります。気持ちよく、自分がさせて頂く御縁を喜びましょう。これは宝物を自分に回して頂いたようなものです。あなた方の損には絶対になりません。供養の80%は、あなた自身の功徳となります。 合掌
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苦の種と楽の種 人間は生まれて来る時、全員「苦の種」と「楽の種」を持たされます。よほどの悪因縁がない限り、苦の種よりも少し楽の種を多く持って生まれます。御神仏によると、同時に同じ手の中に持ってはいけないそうです。苦の種の方が硬いので、同時に持つ事によって軟らかい楽の種が崩れ、残るのは苦の種だけとなるのを防ぐ為に、同じ手に持たない方が良いとの事です。 皆様は苦の種は要らないと考えるかもしれませんが、実はこの苦の種は私達にとって、とても大切な物です。もし苦の種を残して楽の種だけを選んで使ったとしたらどうなるのでしょう?この世にせっかく生を受けた甲斐がなくなってしまいます。苦の種こそ、この世で私達に任命された修行だからです。人間は楽しみが無く苦労ばかりだと精神的に病んでしまい、修行が続けられず、生きていけません。それを避けるために苦労と苦労の間に少しだけ楽しい事を与えられています。したがって楽な種だけを使うと、この世での修行がおろそかになり、人間として生まれて来た意味がなくなります。 多くの人々は年を重ねる程、人生の中での苦労話を良く覚えています。逆に楽しかった事の方が多いにもかかわらず、あまり覚えていません。その結果、自分は他人と比べて苦労をしたと勘違いする人達が多くいます。反対に他人を見る時は、良い事ばかりが目立ち、他人の苦労は、なかなか分からないからです。これが高じてくると自分と他人とを比べ、妬(ねた)んだ結果、他人の不幸を喜ぶ人間になっていきます。幸せな人を見てその人の欠点を探し、それを吹聴し、ありもしない妄想を思い浮かべ、他人を陥(おとしい)れる。こうなると絶対にその人に幸せは訪れません。これは潜在意識が考える力を持っていないためです。自分自身が他人の不幸を喜ぶ人間であったならば、その人の潜在意識は、この者は不幸が好きなのだと勝手に思い込み、不幸をどんどん呼び込む事になります。私達は毎日ほとんど変化のない暮らしをしていると感じていますが、過去を振り返ってみると楽しい事、悲しい事、苦しい事など全て体験しています。自分が不幸を感じると、他人や御神仏のせいにしたがります。御神仏によほど失礼がない限り、御神仏は決して人々に罰を当てたりはされません。しかし感謝のない者達や、信仰心のない者達には光を与える事も少ないのは確かです。 肉体が子供から大人に成長しても、常に子供の頃の物事に対する感動や、素直さが無ければ幸せを呼ぶ事は出来ません。私達に与えられている苦の種と楽の種を上手に使いきって、充実した人生を送りあの世に帰りましょう。その結果、来世も今より良い人生を頂く事が出来ます。逆に楽の種だけを使い、苦の種を残した人は必ず、今の人生より五倍も苦の種を来世で貰って来る事になります。したがって今苦労をしていると感じている人は、自分自身の為に苦の種を使っている事を忘れない事です。この事をしっかり自覚する事により、他人の人生が気にならなくなるはずです。また愚かな妬みもなくなる事でしょう。今のあなたは苦の種、楽の種?どちらを使用中ですか? 合掌
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施食会について 来月4月4日は鳴動式に引き続き、御先祖様が楽しみにしておられる施食会(せじきえ)です。多くのお寺さんでは施餓鬼会と言われています。聖法院では餓鬼道の世界にいる御先祖様だけでなく有縁無縁(うえんむえん)を含めた三界万霊全てに食を施したいので施食会と言っています。この行事は御先祖様に食を施す為だけではなく、日頃私達が多くの生き物を犠牲にして、自分達の命の糧にさせて頂いている事に対しての感謝を表す行事でもあります。お釈迦様の十大弟子である目連上人のお母様が餓鬼道に落ちていたのを施餓鬼会で救ったのは有名なお話です。施食会の時に限らず大事なのは有縁無縁にも施す心です。自分にとっては無縁でも御先祖様が何らかの世話になったかもしれない霊魂や、私達が死後誰も供養をしてくれなかった場合には無縁の霊になりますが、その時の事を考えると自分にとっても他人事ではなくなります。また他人に施す慈悲の心を養う事にもなります。お釈迦様が説かれた言葉の中に『幸せを求めるならば、まず幸せの花が咲く種を蒔きなさい。蒔かぬ種は実る事はない』と説かれています。その種の一つが施食会です。自分の不幸を嘆き、他人に当り散らし「神も仏もあるものか」と不平不満を言う人達がいますが、嘆いても苦しみから抜け出す事が出来ないばかりではなく、何一つ解決しませんし、運気が上がる事もありません。それよりも幸せが実る種蒔きをこつこつと積み重ねて行く事が大事です。それは善因善果となる種蒔きです。不幸は幸福に、不運は幸運になる種蒔きが大切です。あの世で餓鬼道に落ちた霊魂は、自分自身の力で這い上がる事は不可能です。従って残された子孫の者達がしっかりと供養をする事が大切です。 施食会を修する事によって受ける功徳は、先祖だけに及ばず私達にも計り知れないものがあります。自分自身の悪因縁を消し去り、様々な災いや病難等を祓い福を招き、寿命を延ばす功徳もあります。昔からの諺でもある様に『情けは人の為ならず、巡りめぐりて我が身の為に』この諺の如く先祖の為にしてあげる、と言う考えではなく、自分自身の為にさせて頂く考え、の方がむしろ正しいのです。もう一つこの施食会の大切な事は、餓鬼に施すのはあの世だけではなく、この世にも餓鬼が大勢居る事をしっかりと認識する事だ、と御神仏が言われました。他人事ではなく自分自身がこの世の餓鬼道に落ちる事がない様に、言動に気をつけて精進努力した生活を致しましょう。 合掌
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節分の起源 早いものでこの間新年を迎えたと思ったら、もう暦の上では春が来ました。皆様節分には豆まきをされましたか?子供さんがおられる家はきっちりと行事をされるかもしれませんが、大人ばかりの家ではだんだんと省略されて行きます。「鬼は外」と言いながら大豆を全部、口の中に入れていると言われた方もおられますが、毎年言います様に自分の心の中に鬼が住んでいますから、それが一番正しいのかもしれませんね。 何時ごろから節分に大豆をまき始めたのでしょうか?もともとは宮中の年越しの行事でした。秋から冬に入ると日照時間も短くなり陽射しも弱まります。草木も枯れて動物も冬眠し虫も居なくなります。私達人間も何だか淋しく感じ、活動も鈍る季節になります。古くからこの時期は魂の力も衰える、と考えられて来ました。そこで大晦日には一年間の罪や穢れを流し、身を清め厄祓いをして、生命の力をよみがえらせ、新年を迎える行事として「追儺(ついな)」が行われました。節分は文字通り季節を分ける日の事で本来は二十四節気ありますが、いつの間にか立春の前日だけが節分と呼ばれる様になったのです。御神仏は特にこの二月の節分を大事にされ、物事を決める時、正月ではなく節分をめどにされる事が多いのです。昔は大晦日と節分と年二回「追儺」の行事が行われていましたが、いつ頃からか一本化されて二月の節分が残されました。元は三千年前、中国の周時代に「儺(だ)」と呼ばれた疫病を祓う儀式でしたが、唐の時代に日本に伝わりました。文武天皇の慶雲三年(706)大勢の人々が疫病で亡くなったので十二月に行われた事が「続日本紀」の歴史書に出ています。これ以後、毎年大晦日に行われ、平安時代に節分の行事になりました。源氏物語にも登場します。昔は「儺遣らう(なやらう)」と大声を出し鬼を祓っていたそうです。 大豆をまく様になったのは平安の中期、宇多天皇の時代に鞍馬山に住むと言われた鬼が都に乱入しようとしたので、三石三斗の大豆を撒いて災難を逃れたのが始めだそうです。大豆は中国の最古の医学書「本草(ほんぞう)」に鬼毒を殺し痛みを止めると書かれてあり、大豆は生命力が強く霊力があるとされていました。日本では「打撒(うちまき)」と言ってお米を撒いていましたが大豆に変わりました。 豆の撒き方は一応決まりがあるそうです。まず玄関で「鬼は外、福は内」と三度大声を上げて玄関を閉めて、主の部屋から各部屋に撒き台所を最後に撒くそうです。節分にはこの様な言い伝えが色々ありますが、節分をきっかけに私達の心の中には鬼と仏が同居している事を自覚して、今年も鬼の誘惑に負けない心を維持して暮らす事が大切です。 合掌
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「貧、瞋、痴、慢、疑、見」 初法会にて 新年明けましておめでとうございます。昨年は色々と御協力頂きまして誠にありがとうございます。本年も何卒よろしくお願い致します。毎年聖法院では大晦日から元旦にかけまして皆様と共に除夜の鐘を打たせて頂き、引き続き今年の無事を祈って初法会が始まります。鐘を人間の煩悩の数である108回打ちます。私達の煩悩は108もあるのですか?とよく聞かれますが、煩悩とは一体何なのでしょうか? 三毒と言われる貧(とん)むさぼり、瞋(じん)怒り、痴(ち)愚かな心、それに慢(まん)自分が思い上がる心、疑(ぎ)人を疑う心、見(けん)正しく物事を見る事が出来ない心、以上の貧、瞋、痴、慢、疑、見の6種類の煩悩を私達が日常唱えている般若心経の中に書かれてある眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜつ)身(しん)意(に)の六根それぞれに6種類の煩悩を当てはめます。 6×6=36、つまり36の煩悩が生じる事になります。生じた36に現在、過去、未来の3を掛けます。36×3=108となります。お正月早々からなんだか算数の勉強みたいになりましたが、煩悩の数はこうして数えられています。どんな人達も違いはありますが、全員煩悩は持っています。その深さによってそれぞれの因縁が決まります。従って年に一度はそれを反省して除夜の鐘に託して煩悩を少しでも減らす努力をする事が大切です。 今年も悩みや苦しみの時はもちろんの事、楽しい時や嬉しい時にもぜひ聖法院へお参りして下さい。心の故郷として今年もよろしくお願い致します。 寒い中お参り有難うございました。
初護摩にて 「見返り」 不動明王様 「信仰は見返りを求めるものではない。何故ならばそれは不純な信仰心に通ずる。」見返りを求める前にまずやるべき事がある。今迄神仏の加護に気付かずに、今日まで過ごした事を懺悔し、心から感謝する事。日々の懺悔と感謝を積み重ねると同時に、功徳を積む努力をする事。その結果神仏が判断し、その人間に光明を与える。 次に人間の一生はマイナスから始まる事を自覚せよ。マイナスの深さはまちまちであるが、まずはマイナスからゼロになる様に日々努力せよ。 これが不動明王様からのお言葉です。人生のスタートがマイナスからであり、信仰は見返りをもらうためにするものではない事を意識して、これから過ごして頂きたいと思います。 合掌
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