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有機栽培 夏野菜が美味しい季節です。阪急デパートの食品売り場に、有機栽培で作った野菜が出ています。残念ながら私はまだ食べた事がないのですが、大変甘くて美味しいそうです。この野菜を栽培する所が数ヶ月前にテレビで放映されていました。ある日突然、上司に38歳の阪急の社員が有機野菜の栽培をするようにと言われたそうです。彼は農業の経験が全くなく、勿論知識も興味もなかったそうです。大変な驚きと不安で一杯になったのですが、会社の命令となると辞めるか、命令に従うかの選択しかなく仕方なく承知したそうです。和歌山?でしたか田舎に行き現地を見ると更にビックリしました。そこは畑にもなっていない原野でした。何も知らない彼が本当に一からやらねばならなかったのです。睡眠時間を惜しんで勉強し、近くの農業の方に聞きながら土を耕し、野菜作りを始めました。有機栽培で農薬を使えないので虫だらけになり、売れる様な野菜は出来ません。ビニールで覆ったり、本で読んだ知識で、あらゆる事を試しても虫の種類が殖え続け、自分でも嫌になり不安と焦りだけの毎日だったそうです。近所の農家の方々は、何も知らない若者が都会からいきなり来て、普通の栽培でも難しいのに有機栽培なんか出来る訳がない、と思っていたそうです。ただ、毎年ボロボロの野菜しか出来ないのに再挑戦してなかなか根性と忍耐強い人だと感心していたそうです。色々悩んでいる時は、夜もビニールハウスの中で寝たそうです。この虫がこの虫がと殺しても殺しても殖え続けていく虫と対決することだけを考えていました。 ある日、彼は今迄考え違いをしていたのではないか?と思いました。野菜が出来ないのは虫達のせいだ、作っても、作ってもすべて虫達に食われてしまう、と考えて殺虫する事だけに専念していた事が間違っているかもしれない。土が悪いから虫が来るのだと発想の転換をし、また初めから土壌つくりを徹底的に研究すると、虫達が種類別に次第に減って行き、今では全く虫が来ないようになったのです。そしてとても綺麗で自然の甘味が備わった野菜が出来ました。そこまで3年掛かったそうです。今は阪急でも大変良く売れて、世間でも認められ、その道では大変名誉な賞を頂いたそうです。 この放映を見て、人間の社会も同じではないかと感じました。自分に良い結果が出せないのは他が悪いのではなく、正しい考えと努力が足りないのだと言う事です。根本の自分自身の持っている人柄や運命、宿命、様々な因縁が人生の土壌となります。自分の成功の基本となる自分自身の土壌を良く見極めて、それにあった努力と肥料をやる事が大切です。自分が悪の道に走っている人は、悪人が寄って来るのと同じです。成功したければ他人を羨む事無く、他を敵視するのではなく、自分にあった努力をし、自分自身を極める事です。それによって必ず自分にあった成功の花が咲き実を結びます。しっかりとした土壌造りから初めて下さい。 合掌 |
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回向 よく先祖供養や回向(えこう)と言いますが、回向とは字の如く回して向ける。何を回し何処へ向けるのか?二つの意味があります。一つは死者に対して自分の功徳を手向け、死後の安穏を願う事。もう一つは生者に対し、自分の努力で得た善根功徳を他人の為に施す事です。回向の積み重ねが、自分自身の幸福の量と比例します。しかし人間は片手落ちが多く、死者に対して回向をしても生者に対しては行わず、自分の家の先祖は供養しても有縁無縁にはしない。有縁はまだ判りますが、無縁に何故回向しなければならないのか?この事に関しては私も腑に落ちなかったので、御神仏にお聞きした事があります。 自分に何か関係がある人達に回向するのは当たり前ですが、無縁の死者にまで何故回向しなければならないのですか?御神仏のお答えは、自分自身が過去に世話になっていなくても、先祖が世話になった人達が大勢いる。自分で気付かないだけで、何処で他人に迷惑を掛け、世話になっているかは解らない。その者達に対して回向するチャンスを逃がさない様にと言われました。もちろん回向が片手落ちだとしても、それに見合った功徳は平等な形で必ず受ける事が出来ます。霊魂はあの世で絶対に存在する。と言う事をこの仕事を通じて私は常々実感しております。 あるお宅に娘さんが三人居られました。誰も結婚出来ないし、いくら見合いしても結婚間近になると三人とも破談になる、と相談を受け霊視致しますと、お墓が真北を向いている絶家墓で、それを南向きにした途端に結婚を申し込まれ、長女がめでたく結婚されました。他人が墓に入っていますよ、と答えると、そんな人は絶対にいません、と突っぱねられました。しかし気に掛かったのか、数日たってお墓の中を調べたそうです。すると骨の代わりに他人の名前を書いた板塔婆が入っていました。血縁者だから他人じゃないと思われたのです。あの世での他人とは姓の違う人です。例え姉妹兄弟であっても、他家に嫁いだり、養子に行き、姓が違ったり、同棲していても入籍していなければ同じお墓に入れてはいけません。すぐに障りが来なくても何時か必ず障りは来ます。 報告を受け、その板塔婆をお墓から出して下さいと伝えました。数日経ってその人が大変怒って電話を掛けてきました。塔婆を出した途端に、家族全員の身体に激痛が走ってたまらない。これを出したから罰が当たったのではないのか?と言われたのです。どんな出し方をしましたか?と尋ねると近所のお寺に行って話したら、そんな事は迷信だと笑われて、こんな物が気になるのならと、ハサミで板塔婆を半分に切ってしまったのです。刃物を入れたその日から家族全員が腹痛や頭痛に悩まされ、切った事が間違いだと気付かず、出した事が間違いだと思ったのです。 この無礼に対し心から謝り、正しくお墓の念入れをしたら嘘の様に痛みが消えました。仏壇やお墓の念入れや念抜きを、いい加減なやり方で行うと、大変恐い結果を招く事になります。この件を考えてもこの世とあの世は肉眼で見えないだけで、確実につながっている事がはっきりと判ります。もちろん霊魂も存在する事を物語っています。半年過ぎて後の二人の娘さんも、結婚が決まったと報告がありました。今月はお盆月ですので、皆様にあの世と霊魂の存在の再確認をして頂きたいと思います。 合掌
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人生の荷物 徳川家康が「人生というものは、重荷を背負って遠い道のりをずっと歩いて行く様なものだ。」と言っています。私達は人それぞれに人生で背負わなければならない荷物を背負っています。それならば子供を養い一人前に独立させて、結婚させた時は一つの荷物をおろした事になるのでしょうか? その事を御神仏にお聞きしたら、いやその考え方は違うとおっしゃいました。例えば私の持たされた人生の荷物が100キロとします。途中で50キロ下ろすと、すぐに内容の違う50キロの荷物が来るそうです。ずっと同じ重さの荷物を持たされる仕組みです。人生が終わってあの世へ迎え入れられる時に、この人は100キロの荷物が10キロになったと、最後に計られるそうです。途中で重たくて、投げ出さないようにしなければなりません。その為の精神力、体力をしっかりつけなさい、と御神仏に言われました。精神力、体力とは信仰の深さで決まります。ゆるぎない信仰を持っていれば、途中で倒れそうになった時、御神仏が荷物を少し持ち上げ、私たちは少し軽く感じ、がんばることが出来ます。下ろしてはくれませんが、少しの間支えて頂けます。荷物の重さは私達の悪因縁です。従って各自重さは違います。悪因縁は私達が知らず知らずのうちに犯した罪や穢れなどによる結果です。私達は人生の中で様々な事柄に遭遇しますが、常に二つの道が用意され、どちらを選ぶかによって因縁が大きく違って来ます。それではどの様な事柄が因縁の分かれ目になるのでしょうか? それは生きて行く上での考え方にあり、特に目に見えない事柄に関して、如何に大切に考えるかで変わってきます。 京都大学の平沢先生が「みんな死をあまりにも怖がりすぎている。死というものが何かという事をしっかりと見つめなければいけない」とおっしゃいました。先生は自分でも判らないので、死というものは何なのかという事を考えられたそうです。「大宇宙や大自然から自分が生を受けて生まれてきた。そして皆それぞれ寿命は違うが、ある時期が来たら全員もとの世界へ帰る。しかしそれで終わりではなく、帰った世界でまた大自然を建設する事に自分も参加する。だから一つも寂しくない。この世でもいろんな仕事があるように、あの世でもレベルの高い仕事から低い仕事まで様々な仕事がある。だから色々な仕事が出来るように、今自分がこの人生で修行しなければいけない。」との考えに到達されたそうです。私達より遥かに頭脳明晰な方々の多くは、目に見えない事柄を大切にし、肉眼で見えないだけで確かに存在する、と考える人達の方が多くなっているそうです。信仰心を更に深め、人生の荷物が少しでも軽くなる様に精進努力を致しましょう。 合掌
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氷と水 「水は法縁の器に従うがごとし」と言い、水はどんな器にもすんなり入ります。水は器に合わす事が出来ますが、水が氷に変化すると氷に合った器にしか入れる事が出来ません。私達の心も同じ事が言えます。子供の時は本来の仏の心を持っていますが、大人に成長するにつけ我が出たり、安っぽいプライドを持ったり、世間体を考えたりで本来の心より少しずつ変わり、固い氷の心に変化していきます。お互いにぶつかった時、どちらか一方の心が水であればサラッと流れてくれます。どちらも水であれば止まる事なく、もっともっと早く流れる事が出来ます。しかしどちらも氷であった場合、自分の我が強くて、お互いが自己主張していると、それがぶつかりあい、氷と氷の様にどちらも傷つきます。ぶつかり遭った時、多くの人々は思うのです。相手が悪くて自分は悪くない。もしそうであれば自分が水なので流れて行きます。サラッと流れる事が出来ない時は自分も氷だったのだ、と自覚するべきです。流れを止めたと言う事はお互いに相手に感謝しなければいけません。何故ならば自分は今の今まで自分の心は水だと思っていたのが間違いであった、と気付かせてくれたからです。お大師様が言われる、「皆人間も生き物も全て仏様ですよ」氷に覆われて、本来の水が現れないだけなのです。そして仏様や神様の大慈悲を受ける事によって、その氷が溶けて水になったら、元々は氷も水も同じなのです。ただ我欲やその他、諸々の原因で変化しているだけなのです。 水を氷にしない為に信仰が必要ですが、多くの人達はこの様に言う人がいます。信仰は大切だと思いますが、時間がありません。人間は生きる為に毎日食事を摂ります。これと同じ様に信仰も毎日行うことが本来です。例えば一滴の水をポツンポツンと同じ所へ落としたら、岩に穴を開ける事も出来ます。他人が氷になっているのは良く見えますが、他人と和合出来ない貴方も実は氷になっています。少しでも早くその事に気付けば、速く氷が融けて水に戻ります。自分自身が氷の心である事を認めるのは大変勇気がいる事です。しかし、その勇気こそが自分自身の生活を楽しいものに変えてくれるのです。 特に信者の皆様方は御神仏がしっかりと見守って頂いています。御神仏は、もめ事を一番嫌われます。その事をしっかり肝に銘じて、お互いに他人事と思わず、心が氷になりそうであれば「固まりかけているよ」と愛情をもって声を掛け合いましょう。掛けられた人は素直に受けましょう。それが間違いなく自分自身の幸せにつながる事なのです。 合掌
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真の我慢 先週は今年最後の大祭に御参加頂きまして本当にありがとうございました。大祭を迎えるまでの二十一日間ゴマを厳修致しますので、この大祭が終わるとホッと致します。同時に今年も無事に秋の柴灯ゴマを終えられた事に心から感謝しております。 聖法院では人生相談を受けておりますが、中でも多いのはやはり人間関係の悩みです。相談に来られる方達に逆に質問してみました。ご家族や友人知人、仕事関係の人達と、もめた時どの様に対処しますか?と尋ねると、ほとんどの方が「自分さえ我慢すれば上手く治まるのでしょ」と開き直ります。また女性に多いのは仏壇の前でチンチンと賑やかに金を打ち鳴らし、亡くなった御主人に向かって愚痴をこぼし、自分の心を抑える方法を取っているそうです。それは御先祖様にあたりちらしている感じですし、供養にもならず、先祖は大変な迷惑です。それはただ信仰の形に逃げているだけです。御真言を唱えていると、いつかは心が落ち着くだろう、と考えているそうですが、数日経っても心は落ち着きません。それは、自分は我慢しているのだという考えから心が離れないからです。 御神仏は「我慢というのは、わがままに通じる」とおっしゃいました。それをお聞きして国語辞典で我慢を引くと「自分が偉いと勘違いして、他を軽んじる事、強情な事」と書いてありました。我慢というのは、忍耐の意味もありますが、自分が偉いと勘違いしている事が多く、相手が話す言葉を素直に受け止められず腹が立つのです。子供にお姉ちゃんやお兄ちゃんだから我慢しなさいと言いますが、それはお兄ちゃんやお姉ちゃんが偉い、と勝手な解釈を親がしているからです。大人同士なら私が我慢すればそれで事が治まると思うのは相手を馬鹿にしている事にも通じます。ただし本当に心から判って、これは自分が耐えるべきだと思うなら、その事に対しいつまでも愚痴を言わない事です。それではどの様に考えるのが一番良いのでしょうか?喧嘩をするのではなく、徹底的に私はこう思うのだけど、あなたはどう思いますか?と分かりあえるまで穏やかに落ち着いて話し合い、分かりあえたら、その後一切その事柄にふれず、他人にも愚痴をこぼさない事です。我慢の本当の意味をしっかり理解して、人間関係が良くなる様に気をつけましょう。それが一番自分自身の向上につながります。 合掌
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薬師寺参拝 約1300年前の707年に薬師寺建立。その時代の白鳳文化の薬師如来様を御本尊としたお寺で国宝に指定されています。薬師様は左手に薬壷を持っておられ、病人を治す力があるとされていて、別名を医王如来と言われています。私は最初に皆様と般若心経を唱えた弥勒菩薩様の所で薬師様のお話をお聞かせ下さい、とお願いしました。薬師三尊の所に移動し、再び般若心経を唱えていた時にお話を伺う事が出来ましたが、私が想像していた法話と違い、なかなか難解なお話でした。薬師様は、ただお話をお聞きする気持ちだった私に考える暇を与えず、いきなり質問から始まりました。 薬師:「心はコロコロ変わる、と言われているが心は身体のどの部分にあると思うか?またそれは肉体の内か外か?」 院主:「心のありかは定まっておりません。」 薬師:「それならば心は誰に、又は何に支配されているのか?」 院主:こうなると判りにくいですね。「心は確かにあって自分自身のものだとは思いますが、何に支配されているのかと問われると自分自身ですかね?」と答えるしか仕方がありません。自分の心を支配しているのは他人ではない事は確かです。他人の言動によって変化する事はありますが、支配しているのはあくまでも自分自身です。しかし、いくら自分が支配しているとはいえ、心に思った事、望んだ事が必ず実現できるかと言えば、実現出来ない事の方が多いのは明らかです。 薬師:「自分自身が支配しているのならば何処から心に命令しているのか?」 院主:「脳だと思いますが?」 薬師様が言われるには「心の主人は己自身であるが、心の目はほとんどの時間、外しか見ていない。つまり他人しか見ていない事となる。心はある時は体内にある時は体外に、それは身近にいるばかりではなく、とんでもなく遠方に離れてしまう場合がある。そんな時、人間は心ここにあらず状態となり、ただ茫然と自分では考える事さえ出来ない状態になる事もある。もし心が肉体の一部である脳の指令を受けて動いているとするならば、今の世の中を見聞きするに余りにも正しい事が少な過ぎる。それは脳の働きだけが悪いと言えるのか?いずれにせよ心はほとんど外しか見ていない。若し出来得るならば心の目を内に向けさせる方が良い。それによって他人に惑わされる事は少なくなる。 また人間の魂には潜在意識も含まれている事を知らねばならない。潜在意識は日々の言動による善行、悪行が心中奥深く割合を占め、それが善業、悪業に変化しそれが慣習となり潜在意識となる。出来るならば正しい魂の声を心に聞かせるべきであり、魂が自分自身の心に呼びかけ支配する事が一番良いと思われる。その質の良い魂を作り上げるのは、他でもない自分自身の現在の言動、行為である。人間各自の良き言動により、上質の潜在意識となり、それが魂と共に輪廻転生し、次代の人間世界を作り上げる。その繰り返しがやがて人間の望むユートピアの完成を見るであろう。それには一人一人の惜しまない努力の継続しかない。 合掌
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