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新年の言葉 新年明けましておめでとうございます。昨年中は御協力頂きまして誠に有難うございます。本年もよろしくお願い致します。 江戸後期に仙崖義梵(せんがいぎぼん、天保8年1837年87歳)と名乗る禅僧が居られました。白隠禅師と共に有名な墨画家である。仙崖はあちらこちらで墨絵や書画を頼まれていました。ある時、お正月にちなみ何かめでたい言葉を書いて下さい、と頼まれました。快く引き受けた仙崖は、筆を取るといきなり『祖死父死子死孫死』の八文字を書いて渡しました。もちろん依頼した人は驚きました。めでたいお言葉を頼んだのに、死という文字が四度も繰り返し書かれていたので腹が立ちました。いくらなんでもこれはひど過ぎます。私はめでたいお言葉を頼んだのにと言うと、仙崖は「だから一番めでたい言葉を書いたのじゃ。良く見ろ!まず爺さんが死んで父が死に、そして子が死に最後に孫が死ぬ。この順番で人が死ねる程、幸せな事はない。この順番がちょっとでも狂ってみろ、親より先に子供が死んだら、親はどれ程悲しむか、そこの所を良く考えてみなされ」なる程こんなにめでたい言葉はない、と喜んで帰りました。 またある檀家の新築祝いに招かれた時、揮毫(きごう)を頼まれ気軽に引き受けました。『ぐるりっと家を取り巻く貧乏神』と書きました。有名なお坊さんなので主人は渋い顔をして何も言えませんでした。その時仙崖はにこやかに下の句を書き足しました。『七福神は外に出られず』確かにこれなら新築祝いに相応しいめでたい文句だ、と主人が喜んだのは言うまでもありません。 人生もこれと似通っています。最後までしっかり見なければ道中の上辺だけでは、幸、不幸を決められません。少々嫌な事があったとしても、いきなり腹を立てたり嘆いたりせず、慌てず落ち着いて、事の成り行きを見る事が大事です。今年も様々な事柄を乗り切って生きてゆかなければなりません。色々な事柄に遭遇した時、落ち着いて対処出来る一年でありたいと思います。今年も聖法院を心の故郷として、いつでもお参りくださいます様に心からお待ち致しております。 合掌
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煩悩即菩提 今日は節分です。暦の上では明日から春になります。毎年お話ししていますが、節分の豆まきで「鬼は外、福は内」この鬼は自分自身の心の中にあります。 心の中の鬼を祓って、新たな心で春を迎える行事です。この鬼の正体は人間の煩悩です。しかし私達が生きている限り煩悩は絶えません。霊魂になっても色々な思いや願いがあるものです。ましてや日々生活していると、出来るだけ抑える事は出来ても、全ての煩悩を断ち切る事は出来ません。それではどうすれば良いか?聖法院の教えである大乗仏教の考えは煩悩を敵視しません。 煩悩は悪い心の働きですが、信仰に目覚めるのはこの煩悩の種があるからです。例え誰から見ても仏様のような人であっても、煩悩は持っています。もし煩悩が皆無であれば、この世に生を受けて修行をする必要がないからです。煩悩がそのまま悟りの縁となると考えると、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)、不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)、煩悩を断ぜずして涅槃を得る。この考えが大乗仏教の考えでもあります。例えば腹が立つ時、腹を立ててはいけない、腹立ちを鎮めるべきだと、無理に落ち着かせようとしても余計に心が穏やかでなくなるものです。 不眠症にも同じ事が言えます。眠れない時にあせって眠ろうとすればするほど眠れないものです。それよりもむしろ眠れない時は、無理に寝なくても読書でもすれば良いのです。私はそんな時、今夜はラッキーだと思います。人生寝なくていいのならば、もっと色々出来るのに、と常々思うからです。人間寝なくても死にません。死ぬほどの不眠症になる前に、肉体は勝手に眠る様になっています。あの人は寝不足でお亡くなりになりました。なんて恐らく聞いた事もありません。眠れないと明日の仕事に差し支える。明日が大変だ、と思うから余計に気が立って、眠れなくなるのです。人間は3晩ぐらい眠れなくても大丈夫です。横になっているだけで疲れは取れます。ゆったり読書でもしているうちに、緊張感が取れて自然に眠くなります。但し推理小説は止めた方が良さそうです。私は眠れない時に本を読んだら良い、と何も考えないで読んだ本が実に面白いシドニー、シェルダンの推理小説だったのです。面白くてドンドン読んだら、これが続き物で2冊読んだ事があります。これは失敗しました。 いつも昼寝して働かない人が、一晩眠れなかったと大変悩む人が居ますが、眠れないのは肉体が要求していないからです。大丈夫、そのままでも何時の間にか勝手に眠っています。眠れないと非常に悩んでいた人が、一緒にお参りに行くと立って寝ていました。本人が意識していないだけで充分寝ているものです。 これと同じ様に無理に全ての煩悩を無くそうと考えない方が良いのです。煩悩がある自分をしっかりと認め、自覚して生活しているうちに、煩悩を自然に忘れられて、悟りの道へと導かれます。無理は禁物、煩悩にこだわらず、今の自分を見つめる事が大事です。そして説法をしっかりと聞き体得し、何時しか素晴らしい自分に目覚める日を待ちましょう。 合掌
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口先だけの感謝 深夜の修法後、御神仏に感謝の言葉を述べて一日が終わります。この20数年当たり前の如くしてきた事です。先日いつもの様に感謝して壇上を降りようとした時、御神仏に声を掛けられました。「そちらは日々何に対して感謝を述べているのか?」と聞かれました。私は大変驚きました。何も考える事無くこの数十年同じ事を言ってきたからです。朝は「今日も一日よろしくお願い致します。」一日の終わりに「有難うございました」十年一日の如しと申しますが、何も考える事無く、ただ口から出る言葉です。きっと皆様もそうだと思います。それが突然何に対しての感謝なのか?と聞かれても咄嗟に口から具体的な事柄が出て来ません。日々生活しているのですから、長年の間に色々ありましたが、その日によってそれぞれ内容は違います。例えその日に怪我をしたり、病にかかったりと俗に考えて良き日でなかったとしても、総称して「有難うございました」と口にしてきました。しかし御神仏のお言葉をお聞きして、あーその事柄は含まれていないかもしれない、と思いました。 御神仏が言われたのは「神仏に日々守護されている事に対して有難い、と感謝をするのは人間として当然であるが、人々は日々の大切な事を忘れがちである。それは元気で働ける事に対しての感謝が薄い。その事柄を忘れた結果、人々は毎日愚痴が出る。与えられた仕事に対しての感謝、与えられた仕事は困難な事もあるが、自分に与えられた事に最大の努力をし、しかも楽しくこなせた事に感謝する事が、人間として忘れてはならない事である。与えられた仕事を楽しくする事、これが一番肝心である。多くの人々は仕事に対して、または同じ仕事をする仲間や雇い主に対して愚痴を言い、口に出して言わないまでも心で思う。良く考えてみるが良い。この世に生を受けて仕事を持たされず、他人に当てにされない、頼りにされないほど淋しく、無意味な人生はない。勿論家事や子育ても立派な仕事である。それぞれの人間が役割分担をもって、きちんとこなす努力が大切である。与えられた仕事に対して心から喜び、楽しんで仕事をこなす事が、この世で自分に課せられた修行でもある。何故自分が働かねばならないのか?遊んでいる人も多いのに、と愚痴を言いながら同じ仕事をしたとしても、心で不満を抱きながら得た報酬は、そのお金自体、その人間に喜んで付いて来てないので、その者たちからすぐに立ち去って行く。つまり全く自分の手元に残らない事になる。もちろんお金で残らずとも家族にとって役立つ品物や、時には自分や家族への褒美でも結構。愚痴ばかり思えば、それに連れて付いて来たお金も藻屑と消え去るであろう。自分の目の前に与えられた仕事や環境は、今まで自分自身が努力した結果と、因縁、宿命、運勢などが合わさって今の環境を与えられている。この世に偶然はない。今の自分の仕事や環境に不満があるなら過去の自分の行為に、つまり自分自身に不満を言うのと同じである事を認識せよ。この事を忘れず、日々の感謝を心から口にするが良い。口先だけの感謝は誰にも通じず、それは真の感謝ではない」と説かれました。 同じ自分に与えられた仕事をするならば、愚痴を持ってするより、有り難く楽しくしましょう。それによって得た収入は喜んであなた方の物となる事でしょう。 合掌 |
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病は気から 病は気からと申しますが、どれほど真実味があるものかを実際に実験した人達がいました。今は医学的にこの実験は、絶対に許可が下りないそうです。1883年にオランダの医学者数人が、実験をしました。被験者は投獄されていたブアメードと名乗る死刑囚です。 ベッドに手足を縛りつけ、目隠しをし、ベッドの周りを取り囲んだ医師の一人が厳かに宣告します。「これから行う実験は、人間はどれだけ体内の血液を抜いたら、死に至るかを実験します。まず足の親指にメスを入れます。」囚人は痛みをこらえている様子だった。やがてポタリ、ポタリと血液が親指から落ちる音が、囚人の耳に入ります。囚人には血液の滴り落ちる音が、死へのカウントダウンのように思えたでしょう。数時間後に医師達は囚人に聞こえる様に会話をしました。「これで血液の3分の1が流れ出た事になる。人が死ぬには充分な出血量だ。これを聞いていた囚人は、間もなく息を引き取りました。死因は出血多量でしょうか?実はこの囚人は何処も傷付けられてはいなかったのです。医師達は彼の足に痛みを与えただけでした。その後で用意したバケツに水滴をポタリポタリと落とし続けただけだったのです。それなのに彼は自分が死ぬと勝手に思い込み、衰弱死したのです。 この実験は精神的な事が、如何に肉体に反映するかを実験したものです。何も無いのに自分が悪い結果を想像するだけで、ドンドンと健康状態が悪化する事が、この実験によって判明しました。逆に病でもクヨクヨせずプラスイメージでおれば、少々の病には負けないし、必ず健康が復活する、と思い込む事によって病が良くなる証でもあるのです。プラシーボ効果がこれです。例えば中身はただのメリケン粉なのに、これは良く効く胃薬です、と患者に飲ませると、治る確率が非常に高いそうです。これが暗示の効果です。 プラシーボの語源は喜ばせる、なだめると言う意味のラテン語です。会社で社員に気持ち良く働いて頂く為に、また子供を上手に教育する為にもプラシーボ効果が大変役に立ちます。それは言葉です。上手に誉めて向上させる事です。しかしわざとらしい誉め言葉は逆効果になります。人それぞれの長所を見つけ、上手に誉める事が大事です。誉め上手は時には魔法の様な力を発揮します。これらを考えますと、人間は精神的な事が、どれ程生活の向上や、人間としての向上、健康維持にも大変役立つ事であるかが判ります。その精神的な向上の役に立つのが信仰です。プラスイメージで身心共に幸せな毎日を送りましょう。 合掌
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不幸の根本は何? 一番の不幸の根本は物事や人にこだわりや執着心を持つ事です。精神的な落ち着きを得たいのならば、様々なこだわりを捨て去るべきです。勇気を持って心からパッと開放してしまえば、突然明かりが見えたように大変気が楽になり、今の状況でも充分に幸せを感じる事が出来ます。 例えば、ちょっと高過ぎるかなと思いましたが、大変気に入ったので一万円のコップを五個買って来ました。一つのコップにおしっこを入れて一週間ぐらいトイレの隅に置いておきました。残りの四つは、ビールを飲んだりミルクを飲んだり、色々な事に使います。一週間経つと、おしっこを捨ててコップをきれいに洗剤で洗いました。一万円の高価なグラスですが、一週間おしっこを入れてトイレの隅に置いてあった事を自分だけが知っています。数日後お客様が五人来ました。五つのコップが必要だったので、おしっこを入れていたコップも使いました。もちろん自分は汚いと思うからそれでは飲みません。そのコップにビールをついでお客様に出しました。でもおしっこが入っていたコップだとは、もちろん知りません。「良いグラスですね。さすがにこんな良いグラスでビールを飲むと、普通の缶ビールでも、うまさが倍増しますね。」と言いながら飲んでいます。自分は知っているので、それを横目で見ながら汚いな~と心で思っています。日頃大嫌いな上司だとざまー見ろと思うかもしれません。しかし知っているのは自分だけです。その人は、「こんな良いグラス、いくらしました?」「1万円です。」「すごいですね。」と喜んで飲んでいます。そこで、過去の汚れにこだわっているのは、自分だけです。飲んでいる人は全然こだわっていません。 そのこだわりは何が作用するのでしょうか?それは自分自身の心です。本当は洗ったらきれいなコップになるはずです。コップは念入りにピカピカに洗いました。ガラスですから中へ汚い物がしみ込む事もありません。子供の時に経験あるかも知れませんが、トイレに行った時、うんちやおしっこが手につくことや、赤ちゃんのおしめを換える時、顔におしっこをかけられたとか、始末する時に便が手につくなど、手が汚れた事は誰にでもあります。その都度手を洗い、その手でおにぎりを握ったり色々料理を作ります。どうしてその後におにぎりを握る事が出来るのですか?きれいだと思うから?爪の間に入っているかもしれません。自分の肉体は切り離す事が出来ないので、きれいだと思うより仕方がないからです。こだわりは自分自身の心が作っており、手も洗うときれいになるのであれば、コップも洗えばきれいになるはずです。この様に色々な事で人間というものは自分で勝手にこだわりを持っている訳です。これが執着心です。 様々な事柄への執着をなくす事によって、今より何倍も楽しい人生を送る事が出来ます。しかしこれは誰の手も力も借りる事は出来ません。自分の精神の持ち方を変えるしかありません。今より幸せになりたければ物事や人に対するこだわりや執着心を出来るだけ早く、少しでも自分自身の心から追い出しましょう。 合掌 |
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無神論者 日本人に「あなたは何か信仰を持っていますか?」と質問すると多くの人が「特に信仰に関心がないし、どちらかと言うと無神論者かな。」と答えます。 間違っているのは、これが格好いいと勘違いしている人が多いところです。外国の方々から見ると、神仏を信じていない人は心から信頼出来ないと見なされているそうです。アメリカの大統領でも聖書に手を置いて、誓いの言葉を述べて発言する様子が見受けられます。 また逆に本当は信仰心があり、しっかりと信仰しているにも関わらず「特に信仰はしていません。」と答える人もいます。日本人独特の悪い癖です。自分の意見より他人を見渡して皆に合わせようとする。その理由として、他人に変わった人と思われたくないか、あるいは信仰していると答えると信仰に関して深く聞かれても答えられないからか、理由は様々でしょうが御神仏から見られると、信仰している事がそんなに恥ずかしい事で他人に堂々と言えないのならば、信仰しているとは言えないそうです。本当に心から信心していたら、恥ずべき事ではないし、むしろ一人でも多くの方に知らせたいと思うはずです。 自然科学を深く勉強している大学教授や、宇宙飛行士の多くは、学問をやればやるほど人間の知恵や人間が解明している科学や文明が、いかにちっぽけなものかに気付くと同時に人間の様々な知恵を超越した、絶対的な存在である神仏を信じざるを得ないそうです。何か自分自身に摩訶不思議な事を体験しないからと言って、創造主である神々を信じないまま、あの世に還る人間が一番愚かな者達である事に早く気がつかねばなりません。日々の何気ない行為の中に、大なり小なり御神仏に助けられながら生きている事を自覚しながら、人生を送る事が更に自分の人生を楽しくさせてくれるのです。 逆に堂々と無神論者である事を述べる為には、すべての宗教をあらゆる角度から勉強し、その上で神的なものは存在しない、と結論を出した者こそが無神論者と言うべきです。無神論者と言う者が結婚式はキリスト教、子供の宮参りには神社、葬式はお寺で行い、病気をしたらむやみやたらと色々な所へ頼み歩く。こんな身勝手な人間の願いは御神仏に聞き入れては頂けません。しかしこの様な人は「単に社会的習慣で本気で願いを掛けているのではない」と言うでしょうが、とんでもない誤りです。例えそれが形だけの行事であったとしても宗教行事に参加する事は、無神論者とは言えません。『下手な鉄砲数打ちゃ当たる』式にやっている行為も宗教行為と言えます。私達は目に見えない何者かの存在で生かされている事に早く気付くべきです。 合掌
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