人間の感情(2019年10月)

 人間は感情の動物と言われています。悲喜交交(ひきこもごも)で、腹が立つ時や苦しい時など毎日色々なことがあります。お釈迦様が亡くなられた時、十大弟子の一人、阿難がお釈迦様の死を悲しんで毎日毎日泣き暮らしていました。すると数人が阿難を見て、おかしいのではないか?悟りを開いた者が何故そんなに悲しむのか?何故そんなにイライラするのか?と阿難に尋ねました。阿難はしばらく黙って考え、「25年間一日も欠かさず身近にずっとお仕えしてきた者が、その如来様がこの目の前から居なくなられた。それだけで凡夫も悟りを開いた者もみんな同じだ。悲しい物は悲しいのだ。従ってそれは泣いても恥ずかしい事ではない、と私は思っている」と言われたそうです。

 私も信者さんの葬儀は、やはり寂しい思いをします。引導はしっかり渡しますが、その後いつも涙が出て来るのです。そんな時、自問自答をします。葬式の最中に泣いてはいけない。立派な導師は泣かないと、しかしお釈迦様の直弟子の阿難のことを書いていた本を見て、正しくはどうなのかをお釈迦様にお尋ねすると、『私も弟子を亡くした時は悲しくて涙したこともある。例え感極まって泣いたとしても、大切な事は何かと言えば、信仰の根幹である。根幹を無くさないこととは、信心する心が揺らがないということで、こんなに悲しいつらい思いをして、神仏は真に居られるのか?信仰しているのに何故このような辛い目に遭わされるのだろうか?など、信心の根幹が揺らがなければ、泣いても怒ってもそれは人間として当然である。この私でさえ怒ったことも、泣いたこともある。ただし我子や弟子達に三度同じ事柄で説法するのではない』と説かれました。

 「仏の顔も三度まで」と言われますが、なぜかというと、それ以上同じことを繰り返している人は、その人に幾度説法しても、その人の為にならないばかりではなく、自分の為にもならない。三度同じことを言わせるのは、その人に向上する素質がないということです。その様な者に大切な時間やエネルギーを使わなくて良い。それよりもっと多くの理解出来る人を導きなさい、とお釈迦様は説かれたのです。

合掌